伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

「経験と記憶の体感温度」 東京都写真美術館 無垢と経験の写真 日本の新進作家vol.14 平成二十九年十二月二日—平成三十年一月二十八日

「経験と記憶の体感温度東京都写真美術館 無垢と経験の写真 日本の新進作 家vol.14 平成二十九年十二月二日—平成三十年一月二十八日

 過去があって現在があり、現在によって未来が作られる。時間軸が一方向にしか進まない以上、それは自明 のことである。この展覧会は現在を生き、そこでのリ アルを実直に表現しようと試みている5人の作家の展覧会である。必ずしも写真表現を専門とする作家たち ではないが、いずれの作家も素晴らしいクオリティの作品を出品している。私はこの展覧会を一通り見て回った後、各作家のコンセプトの構築とその表現技術の高さ に驚かされた。

 写真という表現はどうあっても現在の状況と接続しうるものであるが、作者と世界の経験や記憶 との繋がりをどの作家も的確に表現していたからである。私がまずこの展覧会の中で言及したいのが片山真理である。片山は非常に私的な問題から表現活動をスター トした作家であり、自己と社会との接続をいかに表現し実現していくかということは彼女の核の一つだと思 われる。片山は9歳の時に先天性四肢疾患により自ら の意思で両脚を切断し、以降義足とともに過ごしてき たアーティストである。本展覧会の出品作品である『子 供の足のわたし』は作品制作当時に9歳になった片山 の妹の足からかたどったものであり、自分のアイデン ティティの創出と、過去の記憶と幻視の接続を写真という媒体によって表現しようとしているように見受けられる。また、『小さなハイヒールを履くわたし』などは、作家が子供の頃から思い描いていたハイヒールの憧れを具現化する行為としてのセルフポートレイトを創出しているが、これは世間一般の女らしさという文化的パフォーマンスの文脈に接続しようとする行為そのものであり、その行為が幼き日の自分、足を切った時の自分 の体験につながるという部分で、ある種そういった文化 的パフォーマンスへのアンチテーゼこそが私的でありな がらも外に向かって開かれた表現になっているのではな いだろうか。

こうした、ハイヒールに関する一連の表現 は『ハイヒールプロジェクト』という活動に結実し、義 足とハイヒールという人工的なものと身体の接続が、パフォーマンスと身体との接続として力強いものになっていく。セルフポートレイトは作家のアイデンティティ を再考するための一種の表現手法として古くから行われ てきたものであるが、片山の持つ義足というアイデン ティティは自分の身体の一部であると同時に作品の一部 でもある。私は一度だけ作家本人にお会いしたことがあ り、その時の彼女は背が高く颯爽とした歩行を既に実現 しており、まさしくハイヒールを高らかに鳴らして歩い ていけるような女性に見えた。彼女は義足によって自由 に身体を改造することができるし、自己実現のための表現として機能させることが可能なのだと感じることができた。 表現とアイデンティティの関係は彼女にとってこれか らも大きなテーマとして存在し続けることになると感じ るが、身体をさらけ出し、表現として結実させる彼女の 外部に開かれた行為そのものが個人の意識を変え、社会 に変革をもたらしていくだろう。