伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

「ノイズと記憶に関する一考察」 日本美術サウンドアーカイヴ 2018 年1 月 7 日—4 月14 日 資料展 会期:平成三十年六月二十五日—六月二十九日  東京藝術大学にて  

「ノイズと記憶に関する一考察」 日本美術サウンドアーカイヴ 2018 年1 月 7 日—4 月14 日 資料展 会期:平成三十年六月二十五日—六月二十九日  東京藝術大学にて

 この展覧会は視覚資料を中心とする美術史の中で失わ れてきてしまった音の情報に対してアクセスできるよう な資料をアーカイヴ化していこうという試みである。作家や関係者へのインタビュー、文献調査、作家が所有す る録音などを通じて過去の作品にまつわる情報を収集し、整理する。

これは、東京藝大で講師をされている金子智太郎氏とICC 学芸員の畠中実氏が共同で主催しているものだ。今回はそういったアーカイヴ化の活動展示 という、研究発表のような展覧会であった。  

まず、この展示の展示の一角を担っていた堀浩哉の作品についてのべてみたいと思う。このアーカイブ展 の全容ということではなく、わたしが実際に目にした生 のパフォーマンスの考察、ということになる。幸いなことに、私は1 月に行われた堀氏のパフォーマンスを見ることができた。  

 堀浩哉が最もよく知られているのは美共闘という活動 によってではないだろうかと思う。美共闘とは、全国的な学園 紛争の最中、1969 年7 月に多摩美術大学で結成された 反体制的運動を行うグループである。当時の状況として 学生運動ベ平連のような反体制的な運動が各地で行わ れたいたことがあり、それぞれのコミュニティにおける 固有の問題から、近代パラダイムへの制度批判が多数展 開されるようになっていた。「戦争と万博」において前 衛芸術家たちが動員された大阪万博というイベントを国家主義的なイデオロギーとともに太平洋戦争時の状況に なぞらえて論じたのは美術評論家椹木野衣であるが、 そうした国の権力機構ないし、美術権力機構といった制 度を破壊しない限り近代の「美術」は変わらないという のが美共闘の主張であった。「万博」的な未来都市を破 壊し、廃墟の中から芽生える若葉にこそ新たな表現の契 機がある、ということである。  

今回アーカイヴ化されていた作品の一つは1970 年から断続 的に続けられてきた《Reading-Affair》という作品である。この作品は二人のパフォーマーが登場し、交互に言 葉を発する。その言葉が二台のオープンリールのテープ レコーダーによって録音と再生が少しの時差で繰り返さ れてハウリングしていくというものになっている。

ど ういった言葉が発されるかということは作品によって異 なるが、制作された2つの《Reading-Affair》で使われ たものは新聞と、おそらく東日本大震災の行方不明・死 亡者名簿であった。あとで判明したことだが、これはもともと非常に社会性の強いパフォーマンスであり、こうしたメディアを使うことは必然だったようだ。パフォーマンス《MEMORYPRACTIC( Reading-Affair)》では白塗りの出演者二人が新 聞の言葉を一語ずつ交互に発話していくことによって言 葉自体の意味の解体を目指しているように感じられた。 発話された音自体はオープンリールのハウリングによっ てどんどん不鮮明なものになっていく。私はここで、意味のある音とは一体なんだろうか、と考えざるを得なくなった。言葉は単体では意味を持たず、単語として構築 され、しかるべき文脈に乗せられることによって初めて 意味を持つものである。しかし、日常生活において様々 な音が鳴っている場合にすべての音を注意して聞き取るのは不可能だ。つまり人は自分の聞きたい音のみに対して耳を傾けることができるのであり、それ以外の言葉は すべてノイズとなる。ほとんどの音や事象というものは 余計なものノイズとして世界に残ってしまうし、何がノ イズかというのもその時々によって変化する。そうした 流動性を孕んだ「言葉」や「音」という存在について 改めて考えさせられるものであり、新聞という社会的メ ディアがノイズ化するという美共闘の姿勢も反映して いるのではないか、という感覚があった。また、東日本 大震災での方不明・死亡者名簿を使用して、背後に美し い海岸沿いの波の映像を投影して行われた《わたしは、 だれ?—Reading-Affair》は、堀浩哉と堀えりぜ二名に よるパフォーマンスである。  名簿に書かれた名前を二人が交互に読み上げ、それが オープンリールによって繰り返されてハウリングして いくというものであるが、穏やかに発話されていた二人 の声が途中から悲壮な呼びかけに変化していく。既にい ない我が子によびかけるかのようにその呼びかけは続 き、発話された言葉は繰り返されノイズになっていく。 この作品は未曾有の大被害に際して消失してしまった 魂を再度身体化させ、呼び戻しているかのような降霊の 儀式に近いもののようにわたしには思われた。地震が発 生してから何年もの月日が経っていても被災者の中で も、いや、私たちの中でも震災はまだ終わってはいない。 人の名前は単なる言葉であり、関わりのない人にとって は特に意味を見出せることがない所謂「ノイズ」なのか もしれないが、その言葉を意味のある表象として再び呼 び戻すことをこのパフォーマンスは可能にしていた。発 話された名前たちは身体を取り戻し、時間が経つとまた 多くの人にとってのノイズに戻っていく・・・ 堀のパフォーマンスは社会への深い観察眼と批評論理に 基づいたものであるが、根底には確固たる身体への眼差 しが存在するのだ。  

さらにこの展覧会に関して一つ述べておきたい事があ る。それは「記憶」というもののことである。他者に記 憶される事によって作品は作品として存在する事が可能 であるし、記憶する側と記憶される側のイメージとの差 異が歴史を作っている事も事実であると思う。私は、本 展覧会にアーカイブされていた高見澤文雄という作家を 不勉強にも今まで知らずに過ごしてきていた。従って、 高見澤が1974 年に東京ビエンナーレに出品していた作 品、『柵を越えた羊の数』も当然知る由もなかった。し かし、この展覧会でこの作品の情報を目の当たりにした 時、この作品が持つ「記憶」という体験の重要さについ て大いに考える事になった。『柵を越えた羊の数』の作 品制作の手順は実に簡単だ。寝る前にベッドの中で口に マイクロフォンをくわえ、テープレコーダーを作動させ たまま声を出して意識のあるかぎり数を数えつづける。 その後、録音されたテープを再生して自分で聞きながら 数の記録をし、それと同時に1を0として、1から始ま る期間を数ごとに何分何秒単位で記録する。こうした方 法によってラジカセに録音された25 日分の録音が壁に 沿って等間隔で並べられ、それが記録とともに展示され るわけだ。この作品は意識と無意識の境目を探るもので あり、その状況下においての記憶のあり方を再考するも のであった。どういう状況においてイメージを考えるか によって記憶には差異が出てくるし事実がどうであれ、 そういった曖昧な記憶でしか人は日々を捉える事ができ ないのだ。