伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

『TWO - in transit Hara Museum』—原美術館閉館に際して—

 原美術館が閉館した。1/11日のことだった。思い入れのある美術館が閉まるので、つい感傷的になってしまう。原美術館閉館の日、僕は『TWO - in transit Hara Museum』という映画を見ていた。40分ほどのごく短いもので、館内でパフォーマンスを行う森山未来向井山朋子を撮影したものだ。レイノーや宮島達男の作品が設置される空間で身体を動かす森山未来の身体のしなやかさに目を見張る。原美術館は作品と建築が密接に呼応し、フィクションを立ち上げるための良質な舞台空間だ。曲線を描く廊下や、サンルームから見える中庭を舐めるようにカメラが走る。イチョウの葉が舞う様子や夜の原美術館には幻想的な趣を感じた。美術館の白い壁に映る木漏れ日の光と木々の美しい影の中で奏でられる向井山朋子のピアノもとても美しい。次のカットでピアノが流れる中(しかもオフスクリーンサウンドで)、レイノーの《ゼロの空間》の中で森山未来がパフォーマンスをしているのだが、この〈オフスクリーンサウンドでピアノが流れる〉ことにこの映画の面白さがある。実は、向井山と森山が対面するシーンは、階段でのごく一部のシーンだけである。それ以外のシーンでは、常に2人の間には原美術館というメディアを介した別の物語の「予感」だけが横たわっている。多くの美術館は回廊型であり、一つ一つの部屋が作品を見せるための空間として広く取られているが、原美術館は個人の邸宅であり、作品を設置するにしては少々手狭なスペースも散見される(もちろん、通常の住宅よりは広いが)。しかし、その狭さと入り組んだ部屋の配置とが、鑑賞者を演劇的な空間へと誘い、原美術館という舞台の中で登場人物として振舞うように要請されるのだ。森山と向井山の身体は原美術館を通り抜けるピアノの音を介して映像の中で響き合う。ピアノの音を通して別の世界線の住人の息遣いが画面上で融合することで、映像に奥行きが生まれているのだ。

 原美術館は、昔読んだ『バーナム博物館』という小説に少し似ている。うろ覚えだが、確固たる場所の設定や、収集の理由は明らかにされず、謎が謎を呼ぶ中で、部屋から部屋へ移りゆく際の情景描写だけが精密に描かれていた。展示品や、それを取り巻く人々が生み出す物語への「予感」だけを掬い上げようとしているように感じられたことは原美術館での体験と共通しているものがあったと思う。また、時折、森山未来が居酒屋のような場所でおにぎりを食べるシーンと、ご飯粒をくっつけながら、おにぎりを食べている口元を写し続けるシーンが挿入されるのだが、そこだけは原美術館と直接関係のないシーンで、何で挿入されているのか困惑した。向井山氏のTwitterでの発言によればバタイユへのオマージュということだった。少し前に見た吉開菜央の映像作品でも、花びらをくっつけた口をクロースアップで写す手法が取られていたのを思い出す。こうした表現の引用元について、詳しく知りたいものである。

 日本において、これほどまでに作品と密接に呼応していた美術館もないだろう。軋む廊下や、木漏れ日が差し込むサンルームの美しさが思い出される。日常空間に限りなく近く、しかし、素晴らしい非日常空間として成立していた原美術館の最後の姿を、この映画と共に思い出すことができた。映画も原美術館も、1/11日に姿を消してしまった。夢のように消えてしまった、あの空間を体験することが2度とできないのは残念で仕方がない。鈴木康弘の『募金箱 泉』にお金をいれることも2度とない。しかし、記憶が語られるたびに生まれ直すように、原美術館に内包された記憶等は、新しい場所でまた別の物語を紡ぐのだろう。群馬県のハラ・ミュージアム・アークに原美術館の常設作品は移設されるそうだ。僕は行ったことがないが、原美術館のコレクションたちが新しい場所で見られることを心待ちにしている。