伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

研究ノート1

今日からまた研究を再開する。

「問い」

戦後美術の中で実験工房はメディア・アートの先駆的な存在として位置づけられている(誰に?)が、そもそも実験工房とはどのような存在だったのか?次週はそういった発表にしようと思う。この運動体の面白さは前提として言わなければならないことだ。なんとか言葉にしたい。

同時代の具体と比較して、インターメディア的な方向性が個々の作品として結実するのではなく、つまり各メディアが融合して1つの作品を形作るのではなく、併置的に配置された上で他領域の作家とのコラボレーションの中で成立していくことを目指した団体であったことを確認する。1960年代にメディア・テクノロジーと結びついた「インターメディア」と呼ばれる表現が多数出現した(例を提示)したが、彼らの面白さや特徴はどこにあったのか考察する。それが佐藤慶次郎や北代省三山口勝弘のような作家にどのように受け継がれていったのか?照明家やエンジニアがメンバにいたことの意味等について考える。

なぜ僕が佐藤慶次郎を扱うのかが平倉さんはいまいちわからないと言っていた。そのためには彼が所属した「実験工房」の歴史的位置付けをきちんとすることだ。それは実験工房がどういう運動だったのかをきちんと調べて大きい文脈の中に位置づけるということになる。頑張ろう。

最近は勝手にハイレッドセンターの活動とか、赤瀬川原平の活動とかについて考えていたりしたのでテーマを変えることも考えていたけど、上記でとりあえず頑張ってみよう。

(補足)

なぜ1960年代にインターメディア的なテクノロジーによるユートピア思想が芽生えたのか?1970年代のテクノロジカルなアートは開くことを目的としていたが、一方で閉じてる感じの佐藤作品との比較。山口勝弘は開いている(インタラクティブに)が、佐藤は閉じている感覚がある。なんなのか?万博が終わった後の世界。テクノロジーが作品に対してどのように扱われたのか?扱われ方が70年以降と以前で変わったのか?ちゃんと調べる。しばらくは作品の外在的なところからいく。内在的なところがないことが作品の形式として存在すること。