伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

小林公平さんへ

https://x.com/bayapicochan?s=21

自分で分かってやってると思いますが、SNSで僕のブログとか昔のツイートとかに関して定期的に揶揄する行為について、本当に気分を害しているのでやめてください。

僕と僕の父親も気分を害してます。

あと、僕の友人も友人の僕に対してのリプをいいねする感じについて気持ち悪がっていたので、やめた方が良いと思います。

さすがにネトストだと思います。どうすればやめてもらえるんでしょうか。

前から言ってると思いますが、やめてください。僕もあなたに関わらないし言及しないので。また、何度もお願いしているのに、そういうことをする理由を教えて欲しいです。

普通に芸文に入ったことすら嫌になってきました。もう僕はこのブログで文章を書くことはないでしょう。

嫌いなら嫌いで良いのでやる行動の意味を知りたいです。本当にここまで僕に執着する意味がわかりません。

もしこれ以上続けるようなら、また対策を考えます。

 

流されていくだけ

自分1人で何かを決めたられたことがない。

でも、やりたくないことだけははっきりしているから、そこを通らないように流されていったら、いつのまにか予想もしなかった遠い場所まで来てしまった感覚がある。

美術なんて1番興味なかったのに流れ着いてしまったし。

飽きっぽい子供だったが、飽きっぽいところだけは帰納法的な思考が必要とされる「キュレーション」という営為に向いているとは思う。雑食なところが功を奏した。

一つのことにのめり込めたら良かったが、そうはならなかった。作曲家にも建築家にも医者にもなりたかった(し)まだなれるとどこかで思っている自分がいる。あ、でも全部専門職だ。僕は専門職以外につくことを昔から全く考えていなかった。

いい加減なワナビーだ。

こんな流浪人の自分でも、公立美術館の学芸員として正規の職を得ることとなった。何かの冗談かと思ったが、本当のようだ。

非正規(非常勤)職員ではなくなることに安堵するとともに、一目散に逃げ出したくなるほどの恐怖感もおぼえた。
まったく天邪鬼な身体だ。
でもそれが自分なのだ。

何かに憧れ続けている人生の方が幸せかもしれないが、身体の拒絶反応を飼い慣らしながら生きるのが自分の人生を生きるということかもしれない。

そして、「ここではないどこか」を身体のどこかに組み込んで虚構の靴を履けば、現実だって軽やかに歩けるはずだ。

美術館は万人にとって現実を軽やかに歩くための靴を得るための場所なのかもしれない。

んなこたどうでもういいから、誰か俺をもっと遠い場所に連れて行ってくれ!

話すテンポが違うということ

「気が合う」と他者に対して判断する際に、何が基準になるのだろうか?

自分にとって、話すテンポが全く違う人間が同じ空間にいることは、少なからず負荷がかかる要因になる。ここで言う「テンポ」は、〈発話の時間的な長さ〉のことなんだけど、僕は比較的短い時間で多くの発語をする人間を好む傾向にある。

僕は人より早口な方だし、スピードを上げると会話のハンドルをなかなか手放さないところがある。最近は、ブレーキをこまめにかけるようにしているんだけど、車線変更が多いせいで困ってる人がいないか心配だ。

ハンドルはほとんど壊れていて、めいっぱい回してもなかなか曲がってくれない。そのくせ、一度曲がり出すと止まらないところがあるので大変だ笑

ともあれ、僕が話しやすいと感じるのは、比較的話すスピードが速い人間であり、話題に対する切り返しが素早い人である。もちろん全てロジカルに行う必要はないし、多少の飛躍はお互い許容できることが前提だ。

ただし、聞いていて心地良いと思える声の波長に関してはスピードは全く問題にならない。

こういった自己分析は案外役に立つからバカにできない。

かつて自分はラジオパーソナリティのように沈黙を嫌う癖があり、無口な人や話すスピードが遅い人が目の前にいると間を埋めるために喋りまくり相手と自分を疲れてさせてしまうところがあった。

数年前から話し相手から免停を喰らわないように調整を頑張っているし、相手の空気感をかなり意識している。違和感のないコミュニケーションは技術的な修練によって獲得できる(当たり前のことだけど)。

 

また、話し相手が使う言葉の選び方や感触(感情がどのように言葉に乗っているか)も「気が合う」かどうかの大きな判断基準となる。これは気持ち良い悪いといった主観的な感覚の問題になるので合わない人は永久に合わないだろう。

話す内容も重要だが、他者と対話していく中で感じた微妙な違和感を意識することそ重要だ。

技術的な修練があっても取り繕えないノイズのような部分を拾うこと。

発話するそれぞれの身体感覚を相対化していくことで初めてわかることもある。

ダニエル・ホール「それはそれであるということ?」展を見ての感想

少し前になるが、11/26にJUNGLE GYMという東十条駅から徒歩で行ける住宅街の最中にある場所で展覧会を見た。そのことを少し書く。

 

正直行って、この展覧会に入った初見の人間は、アレナスの著書よろしく「なぜこれがアートなの?」と当惑するに違いない。

ただ、そこには現代美術っぽいコードが散りばめられている。それをいちいち分析してパロディ元のいくつかを提示することもできるが、しない。既製品をアートとして展示する方法はデュシャン以来手垢に塗れ、ポップアートの潮流で大爆発して以降はその亜種が細々と息を繋いでいるに過ぎないと思っているからだ。

僕も、そうした亜種のなんちゃってアーティストが展覧会をしているのであれば徹底的に批判をし、最低の展覧会だと言う準備もあったが、どうやらそうではないらしいということがすぐにわかった。

少なくとも、このダニエル・ホールという人物(この人物が誰なのか、はたまた、どこの国の人物なのかは一切説明がないどころか、作品のキャプションすら会場には存在していなかった)は、虎の風船や鏡や、スポンジを、過去の現代美術文法からは意図的に少しズラしているように思えたし、展覧会という形式を現代美術っぽいものと結びつけて、なんか外国人っぽい人間がそれをやっていること自体をパロディとしてシステムをおちょくっているように見えた。このダニエル・ホールという人物は、プロ(アウトサイダーではないという意味で)だ。おそらくは美術の専門教育をどこかで受けたことがある人間だということは容易に想像がついた。

素人がやるなんちゃってコンセプチュアル・アートが(例えば平和美術展で満洲国の地図を展示するレベルの)一層か、せいぜい二層くらいしか積まれていないペラペラのパンケーキだとすれば、ダニエル・ホールなる人物は、十層くらいはある複雑な味のタルトだと思われる。

ある程度見る経験を積んだ人間であれば、素人のなんちゃってアート作品とプロのアート作品との違いはすぐにわかるはずだ。〈造形力〉というのは、単なる観察力や描写力の話だけではない。同じ素材を使っていても、情報の折りたたまれ方や美術の表象不可能性に気を配っているかどうかは、一目瞭然なのだ。

会場に入ったら、ダニエル・ホール本人なのかよくわからない東洋人風の男に作品の説明などをひとしきりされた。めちゃくちゃ日本語がうまかったので日本人かもしれない。ダニエル・ホールという名前を見て、僕が勝手に外国人だと思ってしまっただけで、アーティスト・ネームの可能性だってあるのだ。情報が一切ない以上、実在しているかどうかも怪しいわけで。確かなことは作品がそこにあるということだけである。

一通り見て思ったが、僕はこの展覧会に〈日常的な生活用品を作品化する際のバカバカしさやユーモア〉を感じ、そこに好感を持った。ただ、こうした感性を共有できるのも、もしかしたら自分がある程度現代美術を見る経験を積んだ人間だからなのかもしれず、その自らの閉じられた感性に恐ろしさすら感じた。

おそらく、僕には残念ながら「おそらく」ということしかできないが、この展覧会は、かなり閉じられた展示であることは間違いない。会場も一般的な観衆が入りやすいとはとても思えない。

可能なら、綺麗なホワイトキューブでやって欲しかったとも思う。そうすればもっとバカバカしさが増しただろう。クーンズもそうだが、僕はバカバカしいことを周囲を巻き込みながら大真面目にやる人が大好きだ。ただ、あそこまでマッチョだと胃もたれがするので、摂取は程々にしたいところだが笑

話は飛ぶが、ささやかな既製品の中に造形美を見つけ、様々なやり方で演出することで既存の彫刻らしさを書き換えてきた一人が冨井大裕という美術家である。

冨井は美術をするために日用品を使っているわけだが、ダニエル・ホールと冨井の一番の違いは、〈何のためにその素材を使うか〉、といった素材使用の必然性ないし素材との距離の取り方にあると感じる。

冨井作品が素材の観察に時間を長く使う必要がある(つまり見るための時間を長く取る必要がある)のに対し、ダニエル・ホールはそういうことを必要としていないと思う。言い方は悪いが、造形物としての素材にそこまでのこだわりを感じないのだ。アフォーダンス的に見ることを突き放す余白が冨井作品にはあり、だからこそ見るための時間を作らせる要素が散りばめられていると感じるが、ダニエル・ホールはそこを重視していない。

ではダニエル・ホールが注目しているのは何か?やはりシステムの問題なのだろうが、僕が好感を持った点として挙げた前述の〈おちょくり〉要素以外に何か特筆すべき要素を見つけ出すことは自分にはできなかった。彼は何をしたかったのか?謎は深まるばかりだし、前に何をやっていて今後何をやろうとしているとか、そういう制作理念に関する話もゼロである。

謎が多いやつは嫌いじゃない。

ただ、謎が多すぎると思考が止まる。

人間が知的好奇心を感じたり、欲望を前身させるのは、見えそうで見えないとか、わかりそうでわからない、とかそういう時だ。

全てが謎の女はもはや謎の女ではなく、単なる他者だ。様々なフックを作るのは悪くないが、散漫になると本筋に話を引き戻すのに苦労する。

最後の発言は自分に対しての戒めとしても心に留めておこう。

僕の書く文章も、飛躍している部分ごとの繋がりが他者に見えづらいところがあるからだ。書き手と読み手の2人の自分を同じ熱量でコントロールし続けることは存外に難しい。

 

 

青木淳退任記念展「雲と息つぎ ―テンポラリーなリノベーションとしての展覧会 番外編―」

学生時代の友人である栗田くんは、かつてこう言った。「青木淳は日本の建築家の中で唯一批評をするに値する建築家である」と。

栗田くんは、石上事務所インターンの生き残りで、建築史も美術史もはたまた音楽についても驚くべき量の知識量を持っていた畏友である。

その言葉の真意はもう忘れてしまったし、建築批評を生業にするつもりは(とりあえず今のところは)ないから、青木淳という建築家に特段注目してこなかった。というか、僕は巷の建築学生諸氏に比べれば、鼻で笑われるくらいしか建築展や建築の実作を見たことはない。何より、僕の専門は近現代美術史だ。

しかし、東京藝術大学の退任展にいこうと思い立ったのは、今ではもう建築設計事務所で立派に仕事をしている前述の友人の発言があったからである。

事前情報は得てから行く方だから、Twitterの勤勉な建築学生達が挙げている会場風景を見たが、「これは藝大の陳列館を舞台にしたミニマル・アートっぽいなあ」という感覚が頭をよぎり、60年代の洗礼を受け続けて発狂状態になっていた自分としては、行かねばならぬと次の瞬間には電車に飛び乗っていた。

日曜の上野なんて2度と来たくはないと思っていたが、致し方ない。

クソみたいな人混みの中を俯きながら早歩きに駆け出す。うんざりするような仰々しい博物館の前を通り過ぎ、観光客の群れを突っ切る。

僕にとって上野公園は嫌な記憶が詰まりすぎていてあまり長居したくない。

藝大陳列館の前に着くと人が地面から浮きながら外壁沿いを歩いているのが見えた。

目の錯覚ではないようだったが、実際のところ、浮いているように見えたのはくさび緊結式足場のせいで、入口から出口に向かって壁面沿いを歩きながら移動する設になっていた。

言うまでも無いことだが、外にある窓から中を覗き込むことができるようになっており、内部空間を外から「覗き見る」体験ができた。そうした奇妙な導線をつたって中に入ってみると、そこには白い標示テープによって区切られた、奇妙な空間が広がっていた。テープは一定の間隔かつ高さで設定されており、身長170弱の自分は潜らなければ前に進むことは叶わなかった。テープとテープの間には温湿度計や水差しなど、陳列館の備品であろうと思われるモノ達が並んでおり、段ボール箱の中に入ったプロジェクターもあり、上野駅高架下の風景が箱内の小さなスクリーンに映し出されていた。

陳列館の小部屋には、可動壁が積み上げられた空間があった。2階に上がると、テープによる結界は天井に移設され、鑑賞者の視界を妨げるものは、「ホワイトキューブ」(内部は鉄骨で組まれて階段も設置され、牛久大仏よろしく登れるようになっている)のみだった。

随所にキャプションが存在したが、ここで僕はあることに気づいた。それは、〈キャプションの文字が途中で途切れている〉ことである。続きの文字は2m以上離れた場所にあった。

会場を一巡したところで、僕は青木淳という建築家の意図かもしれないものに気づきつつあった。多くの諸氏はもっと早くお気づきだったかもしれないが、青木淳は〈鑑賞者の意識を断続的に遮断することで、陳列館のなかにある空間を様々な知覚によって発見させようとしている〉と思われる。キャプションの不自然な配置や等間隔に設置されたテープ、普段は隅に仕舞われている備品郡が主役のように展示室に設置されていること、外部から内部を覗くための設がそれを指し示す。

青木のステートメントから展覧会の目的として重要なキーワードを抜き出しておこう。

「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」

「いまここに存在している環境に働きかけ、一時的に、それを一定の方向に変えてみせること」

Jun Aoki Lab

「テンポラリーなリノベーション」というのは、ライブによって刻一刻と移り変わる風景を含めた作品と観者との包含的な関係性を指すに違いない。リノベーションというのは、ライフスタイルに合わせて既存の建築物に対して増改築を行うことをさすが、展覧会という空間を体験するということ自体は「テンポラリー」というにふさわしい体験だと思う。

青木の設計は「いまここに存在している環境」に対して、テープの隙間やキャプションの間、窓から覗き見る風景によって断片的に組織された空間を体験させ、心象風景のような陳列館を立ち上げるようなものだと感じた。

環境は非常に流動的だ。少しの衝撃で簡単に揺らぐ。施した設計が物語が始まりそうなワクワクした予感と少々の居心地の悪さを同居させるようなーいたってささやかなものであったとしてもーそれは観者の体験を作り替えるには十分なものだった。

一般的に、あらゆる境界は個人による集合体としての社会から相互作用的に生じたものであり、個人の振る舞い方を規定しながら一つの環境を形成していくものだ。

そうして作られた環境は一見頑丈そうに見えるが、実はそうではない。

環境はゼリーのように流動的で、その境界は曖昧で脆い。外側から力が加わると内側は押し潰されて破壊され、内側から外側に力が加われば環境を拡張しながら集合体そのもののあり様を変えていく。

私たちは絶えず変わりゆく環境を形作る、曖昧な境界の中に生きている。青木の設計からは、こうした環境の脆弱さを踏まえた上で肯定するような、閉じられながらも開かれていくような空間を感じることができた。

さらに、ともすれば一定の体験に閉じられがちな建築展を〈開く〉ために、おそらく青木は現代美術の、それもミニマル・アートの文法を利用している。この辺りがかなり作為的で上手いと感じた点だ。

あらかじめ用意された場所に対して何らかのアプローチを加えることで空間や風景を変容させるのがその作法だが、鑑賞者が展覧会場にあるものを「作品」として体験することを欲望するのであれば、主体と客体の変容はそうそう起こり得ることではない。

青木は〈自らが建築家であるというバックグラウンドを持っていること〉と〈鑑賞者の意識を断続的に分断させること〉によって、現代美術の文法を使いながらもモノを作品化させずに空間自体を体験させる方向に完全に展覧会をシフトさせた。こうした問題解決のやり方は非常に建築家らしいものを感じるし、めちゃくちゃ良い体験ができたと思った。

極め付けは、最終日12/3の16時よりはじまった、小金沢健人によるパフォーマンスである。現代美術作家である小金沢は、唐突に空間を変容させ、観客をパフォーマー化しながら、半ば暴力的に空間を変容させていった。それは、青木が用意した会場構成を破壊しながら組み替えるという、恐ろしく早い速度によるリノベーションであった。テープはその高さを変えられ、観客は潜り方を工夫しなければならなかったし、プロジェクターの位置や段ボール類、その他備品の位置などほとんどの配置が小金沢のパフォーマンスの中で組み替えられた。

2階に上がると、「ホワイトキューブ」が電動ドリルで破壊され、スモークが焚かれ始めた室内で、キューブの穴から懐中電灯の光が差し込まれたのが見えた。非常に幻想的かつカオスな空間になったことは間違いない。ホワイトキューブは二階の手前入り口から奥にゆっくりと移動させられ(この間僕は、どうなるかわからないので、ビビりながらニヤついていた)、「おー」とかいってキューブから逃げ惑う観客達を尻目に回転しながら蛇行していた。奥までキューブが到達すると、パフォーマー(おそらく青木研の学生達だろう)が出てきて、何かを探すような真似をし始めた。こんなカオスな空間の中じゃ物語がどこかに転がっていてもおかしくない。彼らのパフォーマンスは、自分だけの物語を断片的な心象風景から探す観者そのものだ。

ぶっちゃけマッタクラークみたいな破壊パフォーマンスになるのかと思ってワクワク感と恐怖感を同時に感じていたものの、そうはならずに終わった。青木さんもパフォーマーの1人だったようで、スモークの煙とともになぜか観客によって用意された花道的な導線を辿って消えてしまった。

ホワイトキューブを展覧会会場内で破壊するとか、そういう逆説的な現代美術仕草は、なかなか〈クサい〉パフォーマンスだとは思ったが、全体的に多幸感としてやられた感が残り、素晴らしい夢を見た感覚が残った。

勝手なプロファイルで申し訳ないが、ポエティックでロマンチストな建築家像がイメージとして立ち上がった。しかし、展覧会に折り畳まれたロジックは複雑かつ高度なコードを用いたものであり、もしかしたらパフォーマンスの後でケムに巻かれた大衆を見て、ニンマリ笑うイタズラ好きな発明家なのかもしれない。

捉え所のない、雲のような建築家であり、建築というものの原体験を追求する哲学者でもある青木淳という建築家の展覧会を見ることができて本当に良かった。

自分の人生でここまで語りたくなる建築家もそうそういるまい。

栗田くんは間違ってなかったな、と帰路に着きながら思う。

会場構成は鑑賞者の振る舞いを規定する。キュレーターが行う場合もあるが様々な理由で建築家に会場構成を依頼する場合も多い。

自分もいつか建築家青木淳に展覧会の会場構成を依頼してみたい。

きっと面白くなると思う。まだ見ぬ展覧会の構想をしながら1人電車に飛び乗った。

ブロードウェイミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』〜ストーリーは単調だがエンタメとしては最高〜

ブロードウェイミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』を見た。

ストーリーは一言で言えば、1950年代ニューヨーク版『ロミオとジュリエット』だ。

ヨーロッパ系移民の「ジェッツ」とプエルトリコ系移民の「シャークス」の対立が激化する中、「ジェッツ」の兄貴分トニーと「シャークス」のリーダー、ベルナルドの妹マリアはダンスパーティーの最中に恋に落ちる...という感じ。

あとはロミジュリお決まりの悲劇的展開だが、ラストの展開だけが少し異なる。

シアターオーブはミュージカル専門の劇場であり、2000席近いキャパがあるため空間にとにかく余裕がある。照明も豊富すぎるほど豊富だ。ただ、はじまりのダンスシーンではセットに比べて動きがせせこましく感じられ、見ていて最初はちょっとセットの奥行きや幅の生かし方が足りないように思った…のだが、ドクの薬局の作り込んだ感じとか、奥行きを使ったダンスなどはなかなか空間の使い方が上手で、メリハリを考えたセットにしているのだなと思った。

回舞台の組み替えをうまく行って、移動や時間経過、夢と現実の移り変わりを示しているのは良い。

歌はアンサンブル含め良かったが、なんと言っても素晴らしいのは、マリア役のメラニー・シエラの歌唱である。ストレートプレイは若干大袈裟すぎるきらいがあったけれど、声量は申し分なく、恋する女性の繊細な心の揺れ動きが感情豊かに表現されていたと思う。クラシック畑出身の方なのかも。

演出は移民同士の「アメリカ人らしさ」を巡る対立が中心で、それに伴って、戦争と平和、男と女など二項対立的な要素が絡み合って展開していく。ちなみに、衣装も赤と青の二色で色分けされている。

特に目新しい演出はなかったが、非常にわかりやすい展開に整理されていた。エンタメとしては正解なのだけど、単調すぎて物足りなさは感じてしまった。

キャストは本番ブロードウェイのキャストで、シャークスのメンバー達に関しては、きちんとマンボを歌って踊れるキャストを集めてきたという印象があった。ベルナルド役のアンソニー・サンチェスによるダンスのキレは群を抜いていた。演出に関しては、ダンスと歌を邪魔しない淡々としたものであり、ストーリーをより単調にしている感はあったが、イケメン達の決めポーズでどんどん場転をしていく様は笑えたし見せ方として印象的で良かったと思う。

トニーとマリアが結婚式の真似事をブティックのトルソを使用して行うシーンは、あまりに演劇的すぎて気恥ずかしくなったけれど、あのぐらいクサい芝居の方が、恋することの儚さと狂気的な感じを出しやすいのかもしれない。

ミュージカルなので、ほとんどのキッカケが音楽なのだけど、音楽に操られてるという感覚はなく自然とシーンと音楽が一体化していた。まあ、そのあたりは役者の技量なのだろうけれど。

あと、完全暗転が多かった。別にミュージカルでは普通なのだが、普段現代演劇ばかり見ているとぬるっと切り替わる場合が多いので少し新鮮に思えた。

ちょっと気になったのは、シャークスのメンバーの1人チノがトニーを銃で打つ超重要シーン。トニーがマリアを見つけた途端すぐに打つのは早すぎだと感じた。死んだと伝えられていたマリアを見て驚くトニーの表情が全くいかされていない。観客の頭も追いついていかないだろう。

衝撃的なシーンだっただけに、あまりに唐突すぎる死はわざとらしさを増すため、演劇としては命取りだ。

ただ、ベルナルドの恋人アニタ役のキラ・ソルチェが「マリアは生きている」という伝言をトニーに伝えに行くシーンは名演だった。

結局、民族間の対立によって個人の意思が阻まれ、「マリアは死んだ」と捨て台詞を放ってアニタは去っていくが、個人と民族間の葛藤を表現していくシーンは彼女の独壇場だったと思う。

ただし、このミュージカルを今、日本でみる必要があるかと言われると、ノーである。海外からの一流ミュージカル俳優達を一目見て記念にしようという動機で来ている人が大半だろう。1950年代のアメリカにおける移民の状況を知らなくてもストーリーは分かるが、込み入った問題に関しては、演出で伏線を忍び込ませ、少し国同士の複雑な状況を見せておいた方が現代で上演する意義もあるのではないか、と感じた。