伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

「彫刻の自立性」 揺さぶられる作為 府中市美術館市民ギャラリー 会期:平成三十年六月十二日—六月二十四日

「彫刻の自立性」 揺さぶられる作為 府中市美術館市民ギャラリー 会期:平成三十年六月十二日—六月二十四日  

 本展示は武蔵美大学院の芸術文化制作コースと彫刻専 攻のコースの学生が共同で行った展示である。彫刻専攻 の各学生は作品を制作する上で重要なコンセプトから表 現に至るまでの部分に客観的な批評が介在することにな る。  

彫刻専攻の8人の学生の作品を私が見て回った時に、 心惹かれる作品がいくつかあったが、今回はその中の作 品から二つを取り上げて書いてみようと思う。一つ目は、 木村桃子さんの『線と解体』という作品である。この作 品は木に溝をどんどん彫り込んで行き、そこにドローイ ングを組み合わせることによって、三つ編みの塊がそこ に横たわっているような表現を作り出している作品であ る。この作品で最も重要な点は、この作品自体が台座の 上に乗っかっているという点にある、と私は当初考えた。 これは垂直と水平のフレーミングに関わる美術作品の自 立性といったプリミティヴな問題の一つであり、永遠に 考え続けられるべき問題の一つであると思う。とにかく、 この作品は台の上に乗っている。この作品を作った木村 氏は軽くドライな方向性を作品に持たせるためにマッス を分散させるような表現を作ったというようなことを述 べていたと記憶しているが、私は当初、台座の強いフレー ミングによって、逆に彫刻としての存在感が増している のではないかと思われてしまった。元来台座というもの は地面と作品を分かつものとして作られており、それは リアルと幻想を分割するものとして機能していたが、近 年の芸術動向においてはリアルの側に作品がどんどん 近づいていき、サイトスペシフィックなランドアートや 環境芸術的な彫刻作品もかなり増えてきている。この作 品の他にも台座の上に作品を置いているものがいくつ か存在したが、そういった問いについて作家に聞いてみ る必要があった気がしている。ともあれ、この作品自体 の自立性が台座の成立によって支えられているように 見えるのは間違いない。その一方で、この作品自体に動 的な軽やかさがあるのもまた事実である。単純に今にも 人が地面に倒れようとしている瞬間にも見え、動的な運 動のダイナミズムが表彰されていることが観察できる。  

 こうした表現は、イタリア未来派の表現手法にも見ら れるものであり、ボッチョーニの『空間における連続性 の唯一の形態』はまさしくそうした動作の連続性を表し た彫刻と考えることができる。ボッチョーニはこうした 連続性を表現するためにモーションのスピード自体を 重視しようとしていたが、木村氏の『線と解体』はスピー ドの連続性というよりは、成長の過程におけるゆるやか な連続性なのではないかと感じる。複雑に編み込まれた ように見える木彫の表現も有機的な動作の主体として 植物のような成長の過程を想起させるし、倒れようとし ているような状況も、速いスピードで残像を伴うような 倒れ方ではもちろんないだろう。彼女の述べる軽やかさ の主体である木彫はリアルと手を結んでしまえば、成 立し得ないタイプの軽やかさなのであろう。私は当初、 台座の存在が強すぎると感じたが、そうした自立性に よって生まれるイメージの世界でこそ成立しえない表 現はあるのだと思う。もし台座がなかったら、「倒れか かっている物体」としての側面が強くなってしまい、軽 やかさは失われていくのだろう。地面との距離があるか らこそ成立する彫刻の自立性というものに対して深く考 えさせられた作品であった。  

もう一つ私が取り上げたいのは前田春日美さんの 『Grasp』と『Waving』という二つの作品である。この 二つはそれぞれが独立した造形性を保持しているもの の、互いに相関関係を持っている作品である。『Waving』 の方は塑像としての形態のうねりを示すような作りと なっており、そのうねりに呼応するような形になってい いるのが『Grasp』である。前田はまず風景をパノラマ 撮影した後、その風景を独自のルールに従って切り取っ ていき輪郭線を作り出した。独自のルールとは、山の稜 線のような空と山の境界線のような線として知覚できる ものを風景の中から抜き出していくというものである。  正直、私が『Waving』を見た時は特に面白い造形と も思わず、うねりの必然性も作品に見いだすことができ ず、作品に対してそれほど関心を抱くことができなかっ たが、『Grasp』の方を見た時にその印象は覆された。  

 それによって、風景写真の中にある何らかの線を実体 のある形に立ち上げようとしたのが塑像の作品なのだと わかったのだ。そもそも世界は輪郭線で構成されてはい ない。面と面で構成された辺の部分が線のようにみえる だけである。線はもはや関連付けられた本の肉体からは 切り離されて浮遊する。その所在無さを塑像の強度で復 活させていく前田の仕事には物体の成立とそれからはみ 出し、残ってしまったものに対しての関心があるように 感じられる。こうした実験精神のある作品をもっと見て みたいと感じた。