伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

ダニエル・ホール「それはそれであるということ?」展を見ての感想

少し前になるが、11/26にJUNGLE GYMという東十条駅から徒歩で行ける住宅街の最中にある場所で展覧会を見た。そのことを少し書く。

 

正直行って、この展覧会に入った初見の人間は、アレナスの著書よろしく「なぜこれがアートなの?」と当惑するに違いない。

ただ、そこには現代美術っぽいコードが散りばめられている。それをいちいち分析してパロディ元のいくつかを提示することもできるが、しない。既製品をアートとして展示する方法はデュシャン以来手垢に塗れ、ポップアートの潮流で大爆発して以降はその亜種が細々と息を繋いでいるに過ぎないと思っているからだ。

僕も、そうした亜種のなんちゃってアーティストが展覧会をしているのであれば徹底的に批判をし、最低の展覧会だと言う準備もあったが、どうやらそうではないらしいということがすぐにわかった。

少なくとも、このダニエル・ホールという人物(この人物が誰なのか、はたまた、どこの国の人物なのかは一切説明がないどころか、作品のキャプションすら会場には存在していなかった)は、虎の風船や鏡や、スポンジを、過去の現代美術文法からは意図的に少しズラしているように思えたし、展覧会という形式を現代美術っぽいものと結びつけて、なんか外国人っぽい人間がそれをやっていること自体をパロディとしてシステムをおちょくっているように見えた。このダニエル・ホールという人物は、プロ(アウトサイダーではないという意味で)だ。おそらくは美術の専門教育をどこかで受けたことがある人間だということは容易に想像がついた。

素人がやるなんちゃってコンセプチュアル・アートが(例えば平和美術展で満洲国の地図を展示するレベルの)一層か、せいぜい二層くらいしか積まれていないペラペラのパンケーキだとすれば、ダニエル・ホールなる人物は、十層くらいはある複雑な味のタルトだと思われる。

ある程度見る経験を積んだ人間であれば、素人のなんちゃってアート作品とプロのアート作品との違いはすぐにわかるはずだ。〈造形力〉というのは、単なる観察力や描写力の話だけではない。同じ素材を使っていても、情報の折りたたまれ方や美術の表象不可能性に気を配っているかどうかは、一目瞭然なのだ。

会場に入ったら、ダニエル・ホール本人なのかよくわからない東洋人風の男に作品の説明などをひとしきりされた。めちゃくちゃ日本語がうまかったので日本人かもしれない。ダニエル・ホールという名前を見て、僕が勝手に外国人だと思ってしまっただけで、アーティスト・ネームの可能性だってあるのだ。情報が一切ない以上、実在しているかどうかも怪しいわけで。確かなことは作品がそこにあるということだけである。

一通り見て思ったが、僕はこの展覧会に〈日常的な生活用品を作品化する際のバカバカしさやユーモア〉を感じ、そこに好感を持った。ただ、こうした感性を共有できるのも、もしかしたら自分がある程度現代美術を見る経験を積んだ人間だからなのかもしれず、その自らの閉じられた感性に恐ろしさすら感じた。

おそらく、僕には残念ながら「おそらく」ということしかできないが、この展覧会は、かなり閉じられた展示であることは間違いない。会場も一般的な観衆が入りやすいとはとても思えない。

可能なら、綺麗なホワイトキューブでやって欲しかったとも思う。そうすればもっとバカバカしさが増しただろう。クーンズもそうだが、僕はバカバカしいことを周囲を巻き込みながら大真面目にやる人が大好きだ。ただ、あそこまでマッチョだと胃もたれがするので、摂取は程々にしたいところだが笑

話は飛ぶが、ささやかな既製品の中に造形美を見つけ、様々なやり方で演出することで既存の彫刻らしさを書き換えてきた一人が冨井大裕という美術家である。

冨井は美術をするために日用品を使っているわけだが、ダニエル・ホールと冨井の一番の違いは、〈何のためにその素材を使うか〉、といった素材使用の必然性ないし素材との距離の取り方にあると感じる。

冨井作品が素材の観察に時間を長く使う必要がある(つまり見るための時間を長く取る必要がある)のに対し、ダニエル・ホールはそういうことを必要としていないと思う。言い方は悪いが、造形物としての素材にそこまでのこだわりを感じないのだ。アフォーダンス的に見ることを突き放す余白が冨井作品にはあり、だからこそ見るための時間を作らせる要素が散りばめられていると感じるが、ダニエル・ホールはそこを重視していない。

ではダニエル・ホールが注目しているのは何か?やはりシステムの問題なのだろうが、僕が好感を持った点として挙げた前述の〈おちょくり〉要素以外に何か特筆すべき要素を見つけ出すことは自分にはできなかった。彼は何をしたかったのか?謎は深まるばかりだし、前に何をやっていて今後何をやろうとしているとか、そういう制作理念に関する話もゼロである。

謎が多いやつは嫌いじゃない。

ただ、謎が多すぎると思考が止まる。

人間が知的好奇心を感じたり、欲望を前身させるのは、見えそうで見えないとか、わかりそうでわからない、とかそういう時だ。

全てが謎の女はもはや謎の女ではなく、単なる他者だ。様々なフックを作るのは悪くないが、散漫になると本筋に話を引き戻すのに苦労する。

最後の発言は自分に対しての戒めとしても心に留めておこう。

僕の書く文章も、飛躍している部分ごとの繋がりが他者に見えづらいところがあるからだ。書き手と読み手の2人の自分を同じ熱量でコントロールし続けることは存外に難しい。