伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

役に立つとか立たないとか

 今日は家から一歩も出なかった。論文の「はじめに」を少しだけ書く。8/5に指導教員に見せないといけないので急ピッチで進めていく。作家論というよりも、作品についての事例研究になると思う。8月末と10月初頭に口頭発表がある。頑張らねばならない。誰かに何かを「ちゃんと」説明することはとても難しい。誤解の余地がないような言葉遣いをするために、神経をすり減らす。

 「役に立つ」人間というのが社会では評価されているらしい。「役に立つ」人間というのは、会社に利益をもたらしたり、人の命を救ったり、困っている人を助けたりするなど、自分以外の他者に利をもたらしている人間のことだ。そして、他者に与える利が大きければ大きいほど、「役に立つ」人間として高く評価される傾向にある。ここで重要なのは、「分かりやすく」、もしくは、「目に見えて」利益をもたらす人間が、高く評価されているということだ。つまり、他者へ与える影響を数値化できなければ、「役に立つ」人間として社会的に評価されないということになる。

 世間では、「分かりにくいもの」は利益を生みにくいものとして敬遠される。多くの人が受動的に生きることを肯定する現代において、「分かりにくいもの」は「役に立たないもの」として処理されている。しかし、「分かりやすいもの」は最初から分かりやすかったわけではない。人々の知識と経験によって、徐々に分かりやすくなっていったものだ。なぜ、世間では、数学の問題を分かりやすくすることと、現代美術の問題を分かりやすくすることの価値が異なっているのだろうか?現代美術の問題は優先順位が低く、数学の問題は高い。これは、数学の問題を分かりやすくすることの方が、社会にとって有益なのだ、という判断から来るものだ。数学を学ぶことは、実社会で役に立つスキルに繋がりやすいという判断を、どこかで誰かがしているのだろう。

 僕の両親は、2人とも「役に立つ」人間として社会的に高い評価を得ている。つまり、社会の中で、優先順位の高い仕事をしているということになる。彼らの仕事によって、多くの人々が病から救われたり、会社なり学校なりから評価されやすくなることは想像に難くない。対して、僕は、現代美術関係者以外が読む可能性の少ない(と推測される)論文を書き、多くの人が関心を持とうともしない場所で働こうと考えている。しかも、そのために現在まで高いコストをかけている。社会にとってみれば、非効率的で非生産的な行いだろう。社会的には優先順位の低いことをコストをかけてやろうとしているなんて馬鹿げているのかもしれない。けれども、僕にとっては非常に意味のあることには違いない。だから、しばらくは、僕は、自分のやりたいこと、やるべきだと感じることを続けていくだろう。ただ、そのことは、社会的には多くの人に影響を与えない可能性が高い。そして、僕自身は、両親ほど「役に立つ」人間にはなれないだろう。恐らくそのことが、自分はまだ心の中に引っかかっている。自分はこれで良いのだ、とどうしても思えない。これを読んでいる人は、そんな気持ちなら辞めてしまえとか、こんなことで悩むなんて馬鹿げている、などと思うかもしれない。しかし、やはりこの部分に関しては、自分はまだ開き直ることができないのだ。

 芸術が社会でいかに機能しうるかとか、地方芸術祭とソーシャルエンゲージドアートがいかに関わるかとか、美術館と地域コミュニティとか、そういう話に関心はあるし、可能性はあると思っている。しかし、芸術って社会に必要だよね地域に必要だよね、といった話をして、何かしら文化資源として有用なものとして芸術を位置付けてしまうことにも、僕は違和感がある。そもそも、芸術は社会的に優先順位の低い存在なのに、その価値を押し上げるために、色々なものを乗っけて付加価値を高めようとしているに過ぎないのではないか?あいとりだって、多くの人々にとっては一過性のお祭り騒ぎに過ぎなかったのではないか?美術業界の身内の醜態が、ただひたすらに、ネタにされていただけなのではないか?

 そもそも「分かりにくいもの」を「分かりやすいもの」に変えるのには時間がかかる。「分かりにくいもの」を、既存の分かりやすく価値のあるものに当てはめて価値を作ろうとすれば、そこには必ず齟齬が生まれる。そして、その作業を短期間でやろうとすればするほど、亀裂は広がっていく。

 結局、芸術でも何でも良いが、何かを体験するということは個人的なものだと思う。個人的な経験によって、人は自らの判断基準を形成する。そして、自らの体験から、独自の視点で何かを発見することによって、少しだけ日常の経験が変わることがある。その積み重ねによって、同じ空間にいても、経験できることのバリエーションが増える。そのことは、社会に大した影響を与えるものではないだろう。しかし、自らの人生観を変え得るだけの力があると思う。そして、その経験を他者に伝えていくことで、他者の経験も変わるかもしれない。それが続いていけば、もっと大きい範囲で、何か変わっていくことがあるかもしれない。しかし、それは決して大きな変化ではないだろう。日常生活の中の、ごく些細な変化だ。その変化を評価する方法を、社会はまだ持っていない。そもそも、芸術は社会の役に立つようにできてはいない。少なくとも、すぐに役に立つようにはできてはいない。即効性のあるものではないのだ。そのことを分かった上で、生活の中に受け入れていくことが重要なのではないか。

 僕自身は、今は、もやもやとした気持ちを抱えながら、細々と、何かしら悩みながら生きている。多くの場合、答えは出ない。その場その場の問題に対処する。でも、いつか何か暫定的にでも、大きな枠組みの中で、答えを出せるかもしれない。悩みながら考えるのと、ただ悩むのは違う。これからも、できるだけ、何かしら考えていられるようにしたい。