伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

普通の日記

 この世界には、早足で歩かなければならないリズムが、まるで通奏低音のように流れている。それはふとした瞬間に、BPM高めで僕たちの前に現れる。それは悲しいけどどうしようもないことで。小さい頃、父に着れられて東京に初めて来た時、ひっきりなしに電車から吐き出される黒い背広の群れを飽きることなく見ていたのを思い出す。

「何をそんなに急いでいるんだろう?」「もっとゆっくり歩いてもいいんじゃない?」「ゆっくり歩いた方が怪我をしなさそうだけど。」「いや、ゆっくり歩いたら、押しつぶされて怪我をしそうだ。」

 時々思い出すようにそんなことを考えていた。大人になんてなりたくはなかった。黒い背広の群れと足並みを揃えられずに押しつぶされるのが怖かった。父も母も努力をして、背広達のリズムにあらがっていたように見えた。

 人より頑張ることで認められたい。人の期待に応えたい。だから頑張る。自分が頑張っている姿を誰かに見て欲しい。褒められたいし、認められたい。こうした種類の欲望に、心の奥底では常に違和感を持っていた。そこには、〈人よりも努力をして結果を残した人が称賛される世界〉に対する反発があったかもしれない。こうした価値基準は更なる競争を生む。「どうやったら単純かつ強固な価値観に抗える?」「じゃあさ、いつまで競争に勝ち続けなければならないの?」

 小学校の時、石器に興味を持っていた。自分でより良い切れ味の形をひたすら追い求めていた時のことを思い出す。大学で演劇を夢中になってやっていた時。卒論で自分の納得のいく文章が書けていく時。ただひたすらに、やっていること自体が楽しかった。誰かに見てもらうことは二の次だった。他者に見てもらうために自分を演出し、〈頑張っている人〉として注目してもらうために早足のリズムに乗り続ける。そのことに、自分はどうしても違和感がある。これは自分の社会に対する認識が単に甘いだけなのかもしれないが。

 ある時、他人に話を聴いてもらうには、常に「こいつは主人公だな」と思ってもらわなければならないと知人が言っていた。だからこそSNSで、〈主人公である自分〉を彼は演出している。それは今のところうまくいっているようで、実績も積み重なり、新しい仕事も獲得できている。僕が彼に抱いている感情は、単なる僻み根性なのかもしれない。誰かの期待に応えるためではなく、欲望に忠実な自分を押し出す。今のところ、そういう自分に違和感はないし、「これが好きだ」とか「あれがやりたい」とか素直に言い放つ人に僕は惹かれている。疑問なのだけれど、演出することで人を惹きつけることと、自己の欲望はどの程度まで両立しうるのだろうか?この問いについては、また時々思い返すうちに、答えが見つかるかもしれない。