伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

『忘れる滝の家』観劇メモ

 アトリエ春風舎という場所に初めて行った。舞台が地下にあるというだけで秘密基地のように思われてワクワクした。

 照明が落ちると、フードを被った謎の人物が登場した。謎の人物は手を叩き、物語の始まりを告げた。次第に異なる2つの空間が立ち上がってくる。ナツミとタナベの部屋とフミエとアヤの部屋だ。物語は、異なる時間や空間を行き来し様々な飛躍を縫い合わせながら展開していく。心地の良いセリフ回しが観客を引き込む。「うん」「あれ」「うん」「あれ」「ああ」などとといったセリフの応酬が間を開けず、テンポ良くなされていく。

 戯曲を見ると、同じ空間で展開されていた物語が異なる時間軸のものだということが判明。異なる時間軸の物語が同じ空間を横断していくという手法は演劇ならではのものだけれど、わりとその空間がふわっとしているというか、戯曲を見ないと、ちょっとその辺わからない感覚があった。

 序盤のタナベとナツミの会話でエルビスプレスリーの話が語られる。これはプレスリーが双子だったという話で、けっこう恣意的だと思った。後にタナベの過去が語られる際、効いてくる。香港で行われているデモの会話は、2人の空間が現在のものであることを示唆する。

 物語を呼び込むのは来訪者の登場によることが多い(と感じている)。突然の来訪者ヨシカワの登場によって物語が大きく動き出す。この得体の知れない人物をやっていた藤家さん。めちゃくちゃうまい。人の家に上がり込んで鏡を見つめる描写の不遜な感じとか。

 タナベとヨシカワが山に行く導入のシーン。酢昆布を食べるタナベに「自然派?」と聞くヨシカワのセリフはユーモアに溢れていて、好きだ。「自然嫌いな人とかいるの?」と当然のように答えるタナベのやり取りは突然の来訪者ヨシカワの不穏な存在と会話の違和感によって、山へ向かう物語への期待感を高めている。

 物語が進むにつれて誰が生者で誰が死者なのか分からなくなっていく。山で出会った自称神のコウの母親、フミエの夢の中なのかも分からなくなる。生きていること、死んでいること、現実、過去、未来、夢、全ての場所や状況が入り混じる。その境は曖昧だ。山や滝という場所性が、そうした曖昧さを担保する。自称神(もしくは未来人)が人の頭からマシュマロを取り出すことによってその人の考えていることを知る、というサトリのような行動はある程度説得力持って描かれる。しかし、それもある種のメタファーかもしれない。

 ナツミとタナベ、ヨシカワとコウが最後のシーンでキャンプするシーン。タナベとナツミはパンを食べない。皆既月食というワードが出現する。夢か現か過去か未来か曖昧なまま物語が終わる。運転中の車のトランクからタナベが荷物を取る際に、フミエ達が会話する空間まで分け入ってとってくる際の無造作に時間と空間を飛び越える感覚は面白いなと思った。空間が伸縮しながら話が進む感じ、演者が舞台上に出てこないOFF状態での発話がわりと多く、電話のシーンもエコーが少しかかっていたり等、音響へのこだわりもあり楽しく見ることができた。演劇でしかあり得ない演出のあり方について考える良い機会だったと思う。