伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

青木淳退任記念展「雲と息つぎ ―テンポラリーなリノベーションとしての展覧会 番外編―」

学生時代の友人である栗田くんは、かつてこう言った。「青木淳は日本の建築家の中で唯一批評をするに値する建築家である」と。

栗田くんは、石上事務所インターンの生き残りで、建築史も美術史もはたまた音楽についても驚くべき量の知識量を持っていた畏友である。

その言葉の真意はもう忘れてしまったし、建築批評を生業にするつもりは(とりあえず今のところは)ないから、青木淳という建築家に特段注目してこなかった。というか、僕は巷の建築学生諸氏に比べれば、鼻で笑われるくらいしか建築展や建築の実作を見たことはない。何より、僕の専門は近現代美術史だ。

しかし、東京藝術大学の退任展にいこうと思い立ったのは、今ではもう建築設計事務所で立派に仕事をしている前述の友人の発言があったからである。

事前情報は得てから行く方だから、Twitterの勤勉な建築学生達が挙げている会場風景を見たが、「これは藝大の陳列館を舞台にしたミニマル・アートっぽいなあ」という感覚が頭をよぎり、60年代の洗礼を受け続けて発狂状態になっていた自分としては、行かねばならぬと次の瞬間には電車に飛び乗っていた。

日曜の上野なんて2度と来たくはないと思っていたが、致し方ない。

クソみたいな人混みの中を俯きながら早歩きに駆け出す。うんざりするような仰々しい博物館の前を通り過ぎ、観光客の群れを突っ切る。

僕にとって上野公園は嫌な記憶が詰まりすぎていてあまり長居したくない。

藝大陳列館の前に着くと人が地面から浮きながら外壁沿いを歩いているのが見えた。

目の錯覚ではないようだったが、実際のところ、浮いているように見えたのはくさび緊結式足場のせいで、入口から出口に向かって壁面沿いを歩きながら移動する設になっていた。

言うまでも無いことだが、外にある窓から中を覗き込むことができるようになっており、内部空間を外から「覗き見る」体験ができた。そうした奇妙な導線をつたって中に入ってみると、そこには白い標示テープによって区切られた、奇妙な空間が広がっていた。テープは一定の間隔かつ高さで設定されており、身長170弱の自分は潜らなければ前に進むことは叶わなかった。テープとテープの間には温湿度計や水差しなど、陳列館の備品であろうと思われるモノ達が並んでおり、段ボール箱の中に入ったプロジェクターもあり、上野駅高架下の風景が箱内の小さなスクリーンに映し出されていた。

陳列館の小部屋には、可動壁が積み上げられた空間があった。2階に上がると、テープによる結界は天井に移設され、鑑賞者の視界を妨げるものは、「ホワイトキューブ」(内部は鉄骨で組まれて階段も設置され、牛久大仏よろしく登れるようになっている)のみだった。

随所にキャプションが存在したが、ここで僕はあることに気づいた。それは、〈キャプションの文字が途中で途切れている〉ことである。続きの文字は2m以上離れた場所にあった。

会場を一巡したところで、僕は青木淳という建築家の意図かもしれないものに気づきつつあった。多くの諸氏はもっと早くお気づきだったかもしれないが、青木淳は〈鑑賞者の意識を断続的に遮断することで、陳列館のなかにある空間を様々な知覚によって発見させようとしている〉と思われる。キャプションの不自然な配置や等間隔に設置されたテープ、普段は隅に仕舞われている備品郡が主役のように展示室に設置されていること、外部から内部を覗くための設がそれを指し示す。

青木のステートメントから展覧会の目的として重要なキーワードを抜き出しておこう。

「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」

「いまここに存在している環境に働きかけ、一時的に、それを一定の方向に変えてみせること」

Jun Aoki Lab

「テンポラリーなリノベーション」というのは、ライブによって刻一刻と移り変わる風景を含めた作品と観者との包含的な関係性を指すに違いない。リノベーションというのは、ライフスタイルに合わせて既存の建築物に対して増改築を行うことをさすが、展覧会という空間を体験するということ自体は「テンポラリー」というにふさわしい体験だと思う。

青木の設計は「いまここに存在している環境」に対して、テープの隙間やキャプションの間、窓から覗き見る風景によって断片的に組織された空間を体験させ、心象風景のような陳列館を立ち上げるようなものだと感じた。

環境は非常に流動的だ。少しの衝撃で簡単に揺らぐ。施した設計が物語が始まりそうなワクワクした予感と少々の居心地の悪さを同居させるようなーいたってささやかなものであったとしてもーそれは観者の体験を作り替えるには十分なものだった。

一般的に、あらゆる境界は個人による集合体としての社会から相互作用的に生じたものであり、個人の振る舞い方を規定しながら一つの環境を形成していくものだ。

そうして作られた環境は一見頑丈そうに見えるが、実はそうではない。

環境はゼリーのように流動的で、その境界は曖昧で脆い。外側から力が加わると内側は押し潰されて破壊され、内側から外側に力が加われば環境を拡張しながら集合体そのもののあり様を変えていく。

私たちは絶えず変わりゆく環境を形作る、曖昧な境界の中に生きている。青木の設計からは、こうした環境の脆弱さを踏まえた上で肯定するような、閉じられながらも開かれていくような空間を感じることができた。

さらに、ともすれば一定の体験に閉じられがちな建築展を〈開く〉ために、おそらく青木は現代美術の、それもミニマル・アートの文法を利用している。この辺りがかなり作為的で上手いと感じた点だ。

あらかじめ用意された場所に対して何らかのアプローチを加えることで空間や風景を変容させるのがその作法だが、鑑賞者が展覧会場にあるものを「作品」として体験することを欲望するのであれば、主体と客体の変容はそうそう起こり得ることではない。

青木は〈自らが建築家であるというバックグラウンドを持っていること〉と〈鑑賞者の意識を断続的に分断させること〉によって、現代美術の文法を使いながらもモノを作品化させずに空間自体を体験させる方向に完全に展覧会をシフトさせた。こうした問題解決のやり方は非常に建築家らしいものを感じるし、めちゃくちゃ良い体験ができたと思った。

極め付けは、最終日12/3の16時よりはじまった、小金沢健人によるパフォーマンスである。現代美術作家である小金沢は、唐突に空間を変容させ、観客をパフォーマー化しながら、半ば暴力的に空間を変容させていった。それは、青木が用意した会場構成を破壊しながら組み替えるという、恐ろしく早い速度によるリノベーションであった。テープはその高さを変えられ、観客は潜り方を工夫しなければならなかったし、プロジェクターの位置や段ボール類、その他備品の位置などほとんどの配置が小金沢のパフォーマンスの中で組み替えられた。

2階に上がると、「ホワイトキューブ」が電動ドリルで破壊され、スモークが焚かれ始めた室内で、キューブの穴から懐中電灯の光が差し込まれたのが見えた。非常に幻想的かつカオスな空間になったことは間違いない。ホワイトキューブは二階の手前入り口から奥にゆっくりと移動させられ(この間僕は、どうなるかわからないので、ビビりながらニヤついていた)、「おー」とかいってキューブから逃げ惑う観客達を尻目に回転しながら蛇行していた。奥までキューブが到達すると、パフォーマー(おそらく青木研の学生達だろう)が出てきて、何かを探すような真似をし始めた。こんなカオスな空間の中じゃ物語がどこかに転がっていてもおかしくない。彼らのパフォーマンスは、自分だけの物語を断片的な心象風景から探す観者そのものだ。

ぶっちゃけマッタクラークみたいな破壊パフォーマンスになるのかと思ってワクワク感と恐怖感を同時に感じていたものの、そうはならずに終わった。青木さんもパフォーマーの1人だったようで、スモークの煙とともになぜか観客によって用意された花道的な導線を辿って消えてしまった。

ホワイトキューブを展覧会会場内で破壊するとか、そういう逆説的な現代美術仕草は、なかなか〈クサい〉パフォーマンスだとは思ったが、全体的に多幸感としてやられた感が残り、素晴らしい夢を見た感覚が残った。

勝手なプロファイルで申し訳ないが、ポエティックでロマンチストな建築家像がイメージとして立ち上がった。しかし、展覧会に折り畳まれたロジックは複雑かつ高度なコードを用いたものであり、もしかしたらパフォーマンスの後でケムに巻かれた大衆を見て、ニンマリ笑うイタズラ好きな発明家なのかもしれない。

捉え所のない、雲のような建築家であり、建築というものの原体験を追求する哲学者でもある青木淳という建築家の展覧会を見ることができて本当に良かった。

自分の人生でここまで語りたくなる建築家もそうそういるまい。

栗田くんは間違ってなかったな、と帰路に着きながら思う。

会場構成は鑑賞者の振る舞いを規定する。キュレーターが行う場合もあるが様々な理由で建築家に会場構成を依頼する場合も多い。

自分もいつか建築家青木淳に展覧会の会場構成を依頼してみたい。

きっと面白くなると思う。まだ見ぬ展覧会の構想をしながら1人電車に飛び乗った。