伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

日常的空間で演劇を行うことについて少しぽやぽやと考えてしまったーー『ぶれる境界』を見て

 先程、北千住BUoYで演劇作品『ぶれる境界』を見てきた。ほとんど見返さずに勢いで感想を書いてみる。

 これは僕の経験。関係者の方々は1人の人間の戯言として読んでいただければ。

 本公演はカフェ内部での公演であり、物語の冒頭シーンもカフェから始まる。つまり、劇空間とカフェの日常的空間が緩やかに接続する空間となっているというわけ。

 姉と弟の何気ない会話から物語りが始まり、弟が劇空間の外からコーヒーを持ってくる。こうした劇の作り方は僕はわりと好きな方だ。物語は何気ない会話から次第に弟の恋愛話となり、過去の恋愛や弟の性格がエピソードと共に掘り下げられる。時折、姉イザナミイザナギが登場する古事記の話が伏線として登場。終盤からは生者と死者、過去と現在が混戦し、死者である姉と生者である弟の対比構造が出現する。弟は生者である自分だけが幸せになることを姉に許してもらおうとしており、幸せと不幸せ、過去と現在を行き来しながら最終的には未来へ向けて歩んでいく。

 まあ大雑把に言えばそんな感じだ。間違っていたらごめんなさい。このテキストでは物語に関して深く言及することは避けたいと思う。配信が行われたらまた見返してテキストについて言及するかもしれない。ただ、僕はこの脚本が何を見せたいのか汲み取ることは現時点では困難だったため、言及しないこととしたい。

 さて、観劇時間が進むにつれて、カフェでやることの必然性が失われていったように感じた。断りを入れておくと、これは役者の方々の責任では全くない。むしろ、この演劇で最も評価できる部分は役者の演技力だと思う。ほとんど役者の演技による推進力で、この演劇は完走している。そんな気がした。

 最初のカフェにおける会話劇のシーンから離れ、いわゆる「演劇的」な演出や発声が多用されるたび、なんでこの場所で演劇をやったんだろう?という感覚が頭を支配し続けるようになってしまった。つまり、現実空間の中で虚構世界が完全に浮いてしまっていた、ということだ。そして中盤〜終盤までほとんどその感覚は続いた。この居心地の悪さはなんなのか。

 舞台となる空間は薄いカーテンのようなヴェールで覆われ、うっすらとカフェの風景がその背後に見えるような形式になっていた。しかし、借景の必要が果たしてあったのか?という疑問が僕の心を支配し続けた。もはや風景を借りているだけで、舞台空間自体は完全に現実からは引き離されていた。これは僕だけが思っていたことかもしれないが、カフェで過ごす人々がこちらを眼差していたことがなんとなく居心地が悪かった。登場人物が感情をあらわにするシーンでは、その影響が虚構世界を飛び越えて現実空間に波及し、カフェで食事をしていた人の多くがこちらを見た。自分は、こちら側で起こっていることがあちら側に少なからず影響を与え、それが目の前で起こっていることとは関係のない条件反射的な関係性によって認識されているかもしれない、もしかしたら単なるノイズとして認識しているかもしれないことに関して、鑑賞者として一抹の不安を持ってしまった。

 こうした経験によって、僕は鑑賞者として、あちら側にいる人のことを必要以上に意識してしまったことを告白しておかなければならない。演劇に完全に没入できなくなり、観客ではない、日常空間からこちらを伺う人達のことを考えてしまっていた。中盤〜終盤まではカフェ側の人達が視界に入らないように、完全に耳で演劇を見ていたと思う。

 もしこれがいわゆる口語演劇的な「静かな演劇」が徹底されたものであったらどうだったのか?役者がカフェにいる人間の1人として振る舞うことで、現実と虚構のズレを表現するような演出だったとしたら?以前見た鳥公園の野外劇は、現実の中から静かに虚構が立ち上がり、唐突に終わっていくような演劇だった。日常の中でふいに現れる非日常的な体験を40分くらいに引き伸ばしてみせるようなもので、半ばハプニング的な外側からの影響も多々あった。現実と虚構の干渉というのが一時的なものではなく、常に相互作用的に様々なレベルで起こっていた。これは好みの問題かもしれないけれど、日常空間で演劇をやるのであれば、ふと現実から違和感が立ち現れるような演劇の立ち上げ方が僕は好きだ。

 本公演はカフェの空間をどう見せたいのか?なぜここでやる必要があったのか、自分にとって釈然としないまま終わった。僕がちゃんと演劇を見られていないだけかもしれない。Twitterでは絶賛している人もいるし、違和感を持った人は少ないのだろう。僕は、基本的には観客の役割を全うしたいと考えている。その役割を演じる上で脅威になる要素を排除したいと考えている。

 観劇におけるこうした問題は、僕自身の問題なのか演劇の問題なのか、まだ整理がついていない。だから、この問題については考え続けたいと思う。