伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

人間関係について

 〜人間関係を気にしなくていいなら、この世の悩みの9割は解決するはずだ〜

 

 人というものは恐ろしい。数多ひしめく、もののけの類よりも恐ろしい。人生は人との関わりの連続であり、人付き合いは避けることはできないし、人と関わり合うことはめちゃくちゃ楽しいけれど、同時に、とても恐ろしい。

 人は無邪気に純粋な感性のうちに人を傷つけるし、人間関係のうちに序列を作ろうとする。それは、コイツなら舐めても構わないとかコイツには逆らわないでおこうといった、個人の判定基準によるヒエラルキーである。それは往々にして社会やコミュニティでの地位や自分との関連度、将来性などから算出されるのだが、これが本当に厄介である。それなりの立ち振る舞いをしておかないと舐められたり精神的に追い詰められて殺されたりする。

 僕は中高時代は人間関係で衝突したので、よくわかる。自分の意思を表明し続け、上手いこと責任を回避するような立ち振る舞いをしないとターゲットにされて潰される。社会人は「立場」というものがあるし、昨今はハラスメントなど風当たりが強いので少し収まっている感があるのだが、泣き寝入りを決め込むか、ひっそりと死んでいく人も数多くいるだろう。僕は、そういう人々のことをよく考える。声を上げたくても上げられない人々のことを。でも、死ぬくらいなら声をあげてほしい。少なくとも友人には相談してほしい。僕も親や友人に何かあれば相談しているけれど、自分の受けた痛みを言語化することは、痛みや憎しみから距離を取る際に必要なことだと思っている。

 普段の会話の中でも人から傷つくことを投げつけられることはあるし、その人との関係性が浅からぬものだったりすると、喪失感がすごい。もちろん親友であれば自分の気持ちをありのままに伝えるが、そうできる人間は限られている。

 僕は色々気にしなくてもいいことを考えすぎてしまう性格だけれども、自分がおかしいと思ったことや傷ついたことは覚えておくことにしている。昔受けた傷も忘れることはない。

 もちろん僕も様々な人を、知らず知らずのうちに傷つけてしまっているだろう。もし僕の発言や行動で傷ついてしまっている人がいるなら、僕の気付いてないところで傷ついている人がいるなら謝罪したい。

 人の痛みに無頓着な人間にはなりたくない。しかし、歩み寄りも大事だと思う。世の中が被害者大国になって、各々の被害を声高に主張し始めるのもそれはそれで加害性を持つ。被害者は往々にして、自らの加害性に対して無頓着だ。だからこそ、一旦自分の行動も振り返ってみる必要があると思う。そして、他者の言動や行動に関しての自分の許せる範囲について、よくよく吟味する必要がある。

 僕は人はどこまででも残酷になれることを知っている。自らの立場が脅かされそうになると、すぐに攻撃を始める人々がいることも知っている。色んなニュースを見たり知人の話を聞く度に、人は信じられないし、形式的な会話だけを行なって距離を置いて暮らそうと何度でも思う。

 無神経な人は多い。友人たちにも実は多い。身勝手な言動や行動には腹が立って仕方ない時もある。でも自分の行動を振り返って相手の行動を許すことも多い。また、そうした人々も僕に優しくしてくれたり(理由はどうあれ)、会話を楽しんでくれたりする。その優しさに触れたとき、今を生きていてよかったなと思うのだ。

 人のことを無条件に信用できないことも多いし、ちょっとでも無理だと思ったら距離を離してしまうことも多い僕だけれど、人々の優しさに触れることで、人間関係を続けられている。

 社会において怒りの表明は損だと思う。でも怒りの感情は損得ではない切実な感情だ。あまりにも怒りが誰かに対して持続するようなら、それは表明しなければならない。ただ、出す場所を失敗すると、物笑いの種になるだけなので、出す場所だけは間違えないようにする必要がある。怒らないで済むならその方が良い。

 大変なこともあるけれど、おかげさま精神を持って生きていきたい。