伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

関係性

日々反省をしている、でも気持ちは変わらずで、やらなければいけないことに今は時間を使わないといけなくて、プレッシャーで、自分を優先させてしまう時と人を優先する時の落差が激しい気分屋で、不器用で、そんな自分に落ち込みつつ、でも前を向かないとって思って堂々巡りな日々。好きな人に嫌われるってほんとにつらくてでもそれでも好きな日々だ。ちゃんと自分で改善して信頼を取り戻す。すぐにできることはやろう。

森博嗣作品と僕

 森博嗣の文体は乾いている。熱っぽくも湿っぽくもない。ただひたすらに冷静かつ簡潔で美しい。そして論理的かつ明示的でユーモアもある。最近、僕の書くテキストも森博嗣の文章を手本にしたいと考えている。

 森は、もともと名古屋大学工学部建築学科の材料工学を専門とする助教授であったが、40歳を目前にして小説を書き始めた。一般的にはミステリ作家のカテゴリに入るが、時代小説からSF小説自己啓発的なエッセイ本まで多岐に渡るジャンルを書き分ける作家である。書くスピードとその多作ぶりには目を見張るものがあり、『冷たい密室と博士たち 』を約1週間で書き上げるとか、1時間に6000字もの原稿をタイプするとかいった超人的なエピソードがしばしば語られる。締切を落としたこともないという。こうした森の常軌を逸した生産力に関しては『小説家という職業』(2010)を参照してほしい。

 森の多作力もさることながら、注目すべきはその文体である。簡潔かつ美しい文体であるのは冒頭で述べたが、余計な修飾語のない単語と状況説明の連続は非常に映像的である。例えば『スカイ・クロラ』での戦闘シーンは、戦闘機の動きや位置関係などの状況そのものを羅列することでシーンを立体的に立ち上げる想像力を喚起する効果を発揮している。また、建築学科出身だからなのか、とにかく建築物の描写が細かいことも特徴で、『百年シリーズ』での執拗なまでの都市国家の描写は読者に立体的な都市像をイメージさせていく。

 また、登場人物も乾いている。変にねちっこくないのが良い。僕自身も熱っぽいコミュニケーションは苦手だから、キャラクターにも好感が持てる。生に対する執着がないのも良い。生も死も等価なものであり、目的意識と興味関心だけが生活を作る。『スカイ・クロラ』に関して言えば、空を飛んでいる間だけが自分の生活の全てであり、『ヴォイド・シェイパ シリーズ』では、剣と自分を同一化させ、強くなることが全てである。普通に考えれば浮世離れしているが、自分の信じる世界や美学がはっきりしているところに憧れてしまう。僕は人と話したい時と一人でいたい時の差がはっきりしているから、僕の気持ちを無視して自分の都合だけでぐいぐいコミュニケーションをしてくる人とは縁を切りたくなってしまうことがある。森博嗣作品に出現する人はユーモアもあるし素敵な人間性も見せてくれるんだけど本質的には孤独で、一定の距離を置いて付き合っているのが良いと思う。

 森博嗣作品を愛する人は孤独を愛せる人だと思う。そして自分が大切にする小さな世界と共に生きづらいこの世界を漂っていくのだろう。僕もその1人として、森博嗣作品を読みついでいきたい。基本的には『喜嶋先生の静かな世界』みたいな世界観を大事にして生きていきたいと思っている。

日常的空間で演劇を行うことについて少しぽやぽやと考えてしまったーー『ぶれる境界』を見て

 先程、北千住BUoYで演劇作品『ぶれる境界』を見てきた。ほとんど見返さずに勢いで感想を書いてみる。

 これは僕の経験。関係者の方々は1人の人間の戯言として読んでいただければ。

 本公演はカフェ内部での公演であり、物語の冒頭シーンもカフェから始まる。つまり、劇空間とカフェの日常的空間が緩やかに接続する空間となっているというわけ。

 姉と弟の何気ない会話から物語りが始まり、弟が劇空間の外からコーヒーを持ってくる。こうした劇の作り方は僕はわりと好きな方だ。物語は何気ない会話から次第に弟の恋愛話となり、過去の恋愛や弟の性格がエピソードと共に掘り下げられる。時折、姉イザナミイザナギが登場する古事記の話が伏線として登場。終盤からは生者と死者、過去と現在が混戦し、死者である姉と生者である弟の対比構造が出現する。弟は生者である自分だけが幸せになることを姉に許してもらおうとしており、幸せと不幸せ、過去と現在を行き来しながら最終的には未来へ向けて歩んでいく。

 まあ大雑把に言えばそんな感じだ。間違っていたらごめんなさい。このテキストでは物語に関して深く言及することは避けたいと思う。配信が行われたらまた見返してテキストについて言及するかもしれない。ただ、僕はこの脚本が何を見せたいのか汲み取ることは現時点では困難だったため、言及しないこととしたい。

 さて、観劇時間が進むにつれて、カフェでやることの必然性が失われていったように感じた。断りを入れておくと、これは役者の方々の責任では全くない。むしろ、この演劇で最も評価できる部分は役者の演技力だと思う。ほとんど役者の演技による推進力で、この演劇は完走している。そんな気がした。

 最初のカフェにおける会話劇のシーンから離れ、いわゆる「演劇的」な演出や発声が多用されるたび、なんでこの場所で演劇をやったんだろう?という感覚が頭を支配し続けるようになってしまった。つまり、現実空間の中で虚構世界が完全に浮いてしまっていた、ということだ。そして中盤〜終盤までほとんどその感覚は続いた。この居心地の悪さはなんなのか。

 舞台となる空間は薄いカーテンのようなヴェールで覆われ、うっすらとカフェの風景がその背後に見えるような形式になっていた。しかし、借景の必要が果たしてあったのか?という疑問が僕の心を支配し続けた。もはや風景を借りているだけで、舞台空間自体は完全に現実からは引き離されていた。これは僕だけが思っていたことかもしれないが、カフェで過ごす人々がこちらを眼差していたことがなんとなく居心地が悪かった。登場人物が感情をあらわにするシーンでは、その影響が虚構世界を飛び越えて現実空間に波及し、カフェで食事をしていた人の多くがこちらを見た。自分は、こちら側で起こっていることがあちら側に少なからず影響を与え、それが目の前で起こっていることとは関係のない条件反射的な関係性によって認識されているかもしれない、もしかしたら単なるノイズとして認識しているかもしれないことに関して、鑑賞者として一抹の不安を持ってしまった。

 こうした経験によって、僕は鑑賞者として、あちら側にいる人のことを必要以上に意識してしまったことを告白しておかなければならない。演劇に完全に没入できなくなり、観客ではない、日常空間からこちらを伺う人達のことを考えてしまっていた。中盤〜終盤まではカフェ側の人達が視界に入らないように、完全に耳で演劇を見ていたと思う。

 もしこれがいわゆる口語演劇的な「静かな演劇」が徹底されたものであったらどうだったのか?役者がカフェにいる人間の1人として振る舞うことで、現実と虚構のズレを表現するような演出だったとしたら?以前見た鳥公園の野外劇は、現実の中から静かに虚構が立ち上がり、唐突に終わっていくような演劇だった。日常の中でふいに現れる非日常的な体験を40分くらいに引き伸ばしてみせるようなもので、半ばハプニング的な外側からの影響も多々あった。現実と虚構の干渉というのが一時的なものではなく、常に相互作用的に様々なレベルで起こっていた。これは好みの問題かもしれないけれど、日常空間で演劇をやるのであれば、ふと現実から違和感が立ち現れるような演劇の立ち上げ方が僕は好きだ。

 本公演はカフェの空間をどう見せたいのか?なぜここでやる必要があったのか、自分にとって釈然としないまま終わった。僕がちゃんと演劇を見られていないだけかもしれない。Twitterでは絶賛している人もいるし、違和感を持った人は少ないのだろう。僕は、基本的には観客の役割を全うしたいと考えている。その役割を演じる上で脅威になる要素を排除したいと考えている。

 観劇におけるこうした問題は、僕自身の問題なのか演劇の問題なのか、まだ整理がついていない。だから、この問題については考え続けたいと思う。

牧場エッセイ-人生はいつだってボディブロー。あなた、今日の夕飯はシューカツよ(四国篇)。

 四国行きは就活のために唐突に決定した。ああ、面倒だ。ため息がマスクの繊維を僅かに振るわせる。どーしてわざわざ四国くんだりに今の時期に行かねばならないのか。某県や某市の試験は都内でもやってくれたんだけどなあ、などと小声でぶつくさ呪詛を唱えてみる。まあでも仕方ない。もはやこれは悲しい性によって決定づけられた運命というほかないのだ。心静かに受け入れよう。南無三。

 前置きとして述べておくが、とにかく美術館学芸員や研究員などと呼ばれる仕事(あるいは劇場、ホール職員など文化施設職員全般)は募集が少ない。自らの専門と合致する募集が出れば場所の遠近など問わず、山だろうが島だろうが海の向こうだろうが、どこへでも受験に駆けつけるというのが、そうした職業につこうという人間の悲しい性。否、必然である。戦後美術研究などを不真面目ながらいそいそとやっていた僕なんぞも御多分に洩れず、自分の専門と比較的近い分野の募集が出たので、餌につられてのこのこやってきたわけである。僕は今、四国のとある県にいるが、関東甲信越以外の場所に自分がいるってのも珍しい。このご時世では特に珍しいかもしれない。四国にいくなら、いつか自分の好きな城めぐりで、と思っていたけれど、最初の出会いが就活とはこれいかに。まあこれも何かの縁だし、ひとつ楽しんでやろうじゃないかと思った次第。

 まあ、兎にも角にも就活だ。就活って響きは嫌なので、カタカナにしてみる。シューカツ。シュークリームのクリームの代わりにカツが入っているようなイメージになった。こうしてやるとシューカツもなかなかいけるかもしれない。何より美味しそうだ。もとよりシューカツが主目的の旅にはなるが、そこは令和のサブカル男。節操もなく美術、演劇、音楽の3軸をどうにかこうにか研究に織り交ぜている僕である。四国で、いやもう言っちゃおう!愛媛で展示もしくは公演を鑑賞しない手はない。なにせ、東京で週末に行われる多くの展示と公演を見逃さざるを得ないことに悔し涙を流してはまた流し、行きの電車をびっしゃびっしゃに濡らしてきたのだから、せめて面白いものでも見れなきゃやってらんないという気分にもなるのである。幸いにも2日にわたる試験が終わった後に空き時間があるので、その時間を使って観光なぞをしてみようと思っている。愛媛県美術館はまあ当然行くとして、アートスペースも色々見て回ろう。愛媛に旅をしたことのある友人から愛媛でレジデンススペースをやっているアーティストを紹介してもらって様々に情報を得られたので、とりあえず現代アート関係は大丈夫そうだ。次に演劇だが、愛媛の劇場でやっている演目を調べたら、ななななんと「燐光群」の劇作家、坂手洋二さんが講演会形式のドラマ・リーディングをやるというではないか!うはうは。https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/0bd42ae0abef38f6067bb98fe1723e10

「シアターねこ」というところでやるらしく、猫好きの僕としては好印象。早速予約をしておいた。愛媛といえば半農半芸生活をしている劇作家、鈴江俊郎さんも暮らしているらしい。大竹伸朗さんも宇和島に住んでいるし、瀬戸内国際芸術祭も含めて、なんだか芸術活動が更に盛り上がって行きそうな予感がする。

 松山市は僕の住んでいる横浜市と雰囲気が似ていて、観光地らしい煌びやかさを放ちながらも伝統を守り受け継いでいこうという気概を感じる。そして意外と皆標準語を話す。地方の県庁所在地ってわりとそういうものなのかもしれない。

 ベルトを家に置き忘れてしまったので、今からドンキに買いにいく。繁華街の近くのホテルで良かった。少し明日の筆記試験の準備をして寝よう。

 

日記

 今日は家にずっといた。友人の誕生パーティーから帰ってきて書くべきものを一つ終えた。最近寝不足だったので、ほとんど爆睡していたような1日だった。Aokidさんの話を聴く。ものを触ること、ものと関わることによって少しずつ風景が変わり都市の見え方も変わってくるということなのだろうと思った。建築家の人達は身体的なスケールから空間を考えていると思っていたけど、しばしばそういったスケールを無視して作るのは何故だろう?とかそういうことを考えた。本は精神が安定していないと読むのが難しい。演劇はあまりみられていない。財政難のせいもあるけど。コーンスープを飲んで映画を少し見ようと思う。

研究ノート1

今日からまた研究を再開する。

「問い」

戦後美術の中で実験工房はメディア・アートの先駆的な存在として位置づけられている(誰に?)が、そもそも実験工房とはどのような存在だったのか?次週はそういった発表にしようと思う。この運動体の面白さは前提として言わなければならないことだ。なんとか言葉にしたい。

同時代の具体と比較して、インターメディア的な方向性が個々の作品として結実するのではなく、つまり各メディアが融合して1つの作品を形作るのではなく、併置的に配置された上で他領域の作家とのコラボレーションの中で成立していくことを目指した団体であったことを確認する。1960年代にメディア・テクノロジーと結びついた「インターメディア」と呼ばれる表現が多数出現した(例を提示)したが、彼らの面白さや特徴はどこにあったのか考察する。それが佐藤慶次郎や北代省三山口勝弘のような作家にどのように受け継がれていったのか?照明家やエンジニアがメンバにいたことの意味等について考える。

なぜ僕が佐藤慶次郎を扱うのかが平倉さんはいまいちわからないと言っていた。そのためには彼が所属した「実験工房」の歴史的位置付けをきちんとすることだ。それは実験工房がどういう運動だったのかをきちんと調べて大きい文脈の中に位置づけるということになる。頑張ろう。

最近は勝手にハイレッドセンターの活動とか、赤瀬川原平の活動とかについて考えていたりしたのでテーマを変えることも考えていたけど、上記でとりあえず頑張ってみよう。

(補足)

なぜ1960年代にインターメディア的なテクノロジーによるユートピア思想が芽生えたのか?1970年代のテクノロジカルなアートは開くことを目的としていたが、一方で閉じてる感じの佐藤作品との比較。山口勝弘は開いている(インタラクティブに)が、佐藤は閉じている感覚がある。なんなのか?万博が終わった後の世界。テクノロジーが作品に対してどのように扱われたのか?扱われ方が70年以降と以前で変わったのか?ちゃんと調べる。しばらくは作品の外在的なところからいく。内在的なところがないことが作品の形式として存在すること。

最近のこと05/10

頭痛がする。酷い頭痛だ。

 

 喘息。自らの意思と関係なく咳が出る。持病だ。いつも毎年この時期に発症する。ただ、最近、急に酷くなった。気道が明らかに狭くなっていることがわかる。食欲がなくなり、体力が落ちた。先日、バイトに出向いたが、目眩と頭痛で立っていられなくなり早退した。なんとか立っていようとしたけれど、気を抜くと倒れてしまいそうだったので、どのみち勤務は無理だったと思う。申し訳ないことをしてしまった。頭痛くらい、ちょっと我慢すればなんとかなると思ったのがいけなかった。派遣会社からは心配と怒りが入り混じった注意を受けた。今は熱はないが、もしかしたら今夜あたり出るかもしれない。そんな予感がする。

 会話中に咳が頻発するようになった。息を整えないと咳が出てしまうので、会話に不自然な間があく。あまり長く話せない。電車でも白い目で見られる。マスクをすると息苦しさが増す。ゼミの発表準備はあまり進んでいない。そもそもこの体調で発表できるのか怪しい。できるならしたいと思う。新しいゼミだし。意見が欲しい。いつも大事な時に大変なことが起こる。医師にコロナを疑われる。薬は飲んでいる。吸入薬ではなく、内服薬。しかし、薬を飲んでから余計に悪くなった気がする。なぜだ?医師に電話をしたら吸入薬の処方箋を出してくれるという。明日か明後日、元気があればもらいにいきたい。

 ある人から嫌われていると思う。僕が嫌われるようなことを、きっとしたのだ。心当たりがないわけではない。他人が自分を嫌っているかどうかは態度でわかるものだ。避けられている。避けられるようなことをしたのだと思う。自覚がないわけではない。謝る必要があるかどうかまではわからないけれど(思い過ごしかもしれないから)、申し訳ないことをしてしまったという後悔は残っている。また話せるかどうかは、相手次第のところがある。もやもやとした気分とギクシャクした関係だけが残り続けるのは嫌だ。そうなるかもしれないけれど。

 親友に作品の相談をされた。演劇とファッションの話をずっとした。ただただ楽しかった。このアーティストの友人が僕は大好きだ。最高に面白いやつだし、本音で話ができる。彼との会話は気楽だ。演劇とファッションの話をする時の彼は生き生きしていて、僕なんかよりもずっと頭の回転が速く感じる。猛スピードでぶつかってくる言葉を追いかけるのが精一杯で考えてる余裕はこちらにはない。ただ押し流されてゆくだけだ。支離滅裂なこともあるが、最近は一貫性もあって、思考が深いことを感じる。凄い。彼も僕と話すことを楽しんでくれているようだ。こういう友人は大切にしたい。

 同業者という言い方をあえてするけれど、僕は美術史だとか、美術の研究をしている人とはウマが合わないことが多い。気が合うのはいつだって異分野の人達だ。なぜだろう。自分と同じような人を嫌悪するとかいうアレか?でも、素直でもストレートでもなく、なんらかの欲望を隠している人が多いように感じる。変に捻くれている。僕もきっとそうだ。でも、僕は刹那的な快楽を追い求めている人間の方が絶対に面白いという直感がある。自分の素直な欲望を覆い隠さないで欲しい。前述の友人は欲望を覆い隠さずあけすけに話してくれるから、僕も気楽に話せる。利己的なら利己的でいいし、それを素直に出して欲しい。うまくやろうとしていたことが現実の前に崩壊していくところに人間味が出てくると思う。行き当たりばったり感が欲しい。これは願望ですが。

 7月。以前文章を載せてもらったジャーナルに、また文章を載せていただけることになった。嬉しいことだ。以前のような研究報告的な文章ではなく、鑑賞経験をもとにした文章を書く。鑑賞者・観客論になる。楽しみだ。以前書いたエッセイに嬉しいコメントをくれた人がいたが、感想はどんどん言って欲しい。感想が書かれないもの、語られないものは、作りたくはない。自分が書いた文章で反応がなければ、それはまだまだ実力不足ということだし、精進しなければと思う。どこどこで書いたとか、どの学校を出ているとか、そういうことを問題にされたくはない。でもそーいう人は多い。友達にもいる。嫌なことだ。実績一覧だけを見て人を評価したくはない。

 水戸行きは楽しかった。新しい人とも知り合えた。でも、楽しいと同時に僕はこうした雰囲気に馴染めないな、とも思った。とにかく大人数の中でうまくやれる自信がない。運転席の友人は全く素晴らしかった。ああいう人に皆はついていくのだろうなと思った。完璧でありたいと願っているような友人だ。自分に自信もあるのだと思う。見栄えもいい。自分は助手席でぎこちない会話を繰り出すのみだったので、差は歴然だった。やはり個人で動くのが、僕には向いているのかもしれない。

 もう一度演劇をやりたい。ぜーーーーったいにやる!そういう気持ちがある。演劇のテキストを書きたいという欲望もある。もちろん自分でも出たい。でも、今は書くことをしたいなと思う。お世話になった劇団の公演がもうすぐある。というか、オンラインと上演と両方ある。楽しみで仕方ない。僕は演劇で出会った人達が全員大好きだ。

一回も見直しをせずにここまで一息に書いた。見直しなんてしない。日記とか備忘録はそれでいいって思うところがある。書き出した言葉が何かに繋がれば支離滅裂だって何だって良い。それが自分が書いたものであれば。