伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

何度目かの帰省くらい大目に見てよ

 昨日茨城の実家に帰ってきた。採用試験のためだ。フィールド調査が必要になるなと思い、少し街歩きをする。今の仕事は意外に歩くことが多い。院生の頃より歩く距離は増えたかもしれない。

 何度目かの帰省になる。僕が下関に赴任して一年が経とうとしている。

 仕事でもプライベートでも何度か「事件」は起きたが、どれもそんなに酷い傷は残してはいない。その時負った傷は既に瘡蓋になり、乾き始めているところだ。もうすぐ取れるだろう。

 湯島の建築資料館に行ってから千代田線に乗り、北千住で降りて藝大の修論発表を聴いた後、葛飾区に移動して柴又の街を歩いた。建築資料館では、原広司のドローイングが思いの外カラフルで、伸びやかな線が走っていたのが印象的だった。

 修論審査会で茨城の芸術祭について扱っていた。芸術祭研究はインタビュー命なので、なかなか時間を捻出するのが難しいだろうな、と思う。論文を読んでみたかったので、後で連絡をとることにする。作曲やサウンドアートをやってる人もおり、色々と楽しみながら見て回れた。

 柴又では参道をたくさん歩いてみたが、明日の試験に備えて良い調査ができたかなあと思う。最近、本は読むようになったけど思考力が落ちてる気がするので、もっと文章を書くようにしたい。ブログを再開し出したのも、文章の練習と思考の整理のためである。

 帰り際に金町の「ときわ食堂」で天丼を食べてビールを飲んだ。一緒に食べた人と美味しいねって笑いあって、思わず余韻を噛み締めてしまうくらい美味しかった。人が笑っているのを見るのは好きだ。たまに、人の感情とか考えていることがわからなくなって不安になってしまう時がある。そういう時、僕が確かめても、ちゃんと笑ってくれる人は素敵だ。

 僕は食べることが好きだし、人を笑顔にさせるのって食べ物の持つ大いなる力の一つだと思う。

 父が駅まで迎えにきてくれていて、ドラマを見ながら帰った。明日の準備をして早めに寝ようと思う。

 

普通の日記

 Twitterでスペースをやったら、友人知人が来てくれて楽しく話をすることができた。故郷から遠く離れて、知り合いほとんどいない地にいると、寂しくなる。

 余計なことを考えることも増えた。今のところ、他人と会話することが、自分を生かす手立てだと考えている。でも、同時に何か物足りなさを感じている。

何だ?

 僕は何らかの、目に見える形での実績を出すまではここにいるだろう。いや、いたいと思う。でなければ、なぜわざわざここにきたのかわからない。ここでなければならない理由はあるようでない。一応、内定は出ているけれど、帰投は今じゃない。まだ、覚えることだってたくさんある。

 やりきれない気持ちは毎日抱えている。職場環境に全く不満はない。不満はないが満たされていない気がする。

満たされるってなんだろうか?

 僕は過去と未来を繋ぐミュージアムという装置が好きだし、日常の重力から逃避できる場所だと思う。できれば、非日常が日常になるまでそこで暮らしたいと思う。展示室に足を踏み入れる瞬間が好きだ。作品と向き合い、観察し、少しその中に潜ってみる。息継ぎする間もなく行われる作品との対話が心地よい。

 しかし、現代美術や演劇を見る機会が少ないのはやっぱり堪える。最近は、自分は首都圏に暮らすのが性に合っていることを認めざるを得ない。

 空調の音だけが微かに聴こえる静かな部屋で考えたことは、結局ロクに結論が出ないまま堂々巡りを呼び起こす。明日も少しだけ浮上しよう。これからのためにも。

下関・北九州滞在期①「ベラミ山荘の怪」

 下関で仕事をはじめてから長らくブログをサボってしまっていた。元来の不出不精ならぬ筆不精が祟ったからであり、言葉の放牧を怠っていたこと、ご容赦願いたい。これからは少しずつ更新していきたい所存だ。

 何せ、見たものと書いたものの数が偏りがちになるのは、文章書きとして大変良くないことであろうと思うし、自分も修論やエッセイを書いていた時よりも腕が鈍った感じがしているので、書きつつ読み返しつつ考えていけたらと思っている。

 さて、本題に入ろう。北九州市若松区には、若戸大橋と呼ばれる真っ赤な橋がある。この橋、北九州の戸畑区若松区を繋ぐ交通の要所として機能しているのだが、どうやら重要文化財に指定されているようで、若戸大橋を宣伝する幟がある場所も多かった。

 若松区高塔山には「ベラミ山荘」と呼ばれる山荘があり、そこには「ベラミ山荘 若戸大橋祭り」なる展覧会が行われていた。

 汗だくになりながら山荘周辺にたどり着いたは良いものの、ほとんど山登りの様相を呈してきていた。いやはや、こんなところに人が住む場所があるのかと半信半疑になりかけていた矢先、涼しげな音楽が木陰の隙間から聞こえてくる。音につられて細い小径を歩いていくと、丁寧に刈り込まれた芝生が広がる中庭に人が点々と散らばって椅子に腰掛け、音楽に耳を傾けているのが見えた。

 ライブを行っていた末森樹(Gt.)さん×山福朱実(Vo.)さんのデュオによる軽快なスペイン音楽は、風に乗って草木を揺らしながら僕の耳に届いた。

 木陰で涼みながら音の流れに耳を澄ませる度、少し重力から解放されたような気がした。山荘は普段はシェアハウスとして使われているようだが、今回は展覧会ということで部屋ごとに会場構成がなされていた。

 作品数がそこそこあったので、今回は気になった作品をひとつだけ上げたいと思う。

 僕が関心を惹かれたのは、ほしそらフィルム 映像作品『赤い橋と赤い女』という作品だ。この作品は良い意味で素人っぽさがあり、それがまた良い味を出している。

 映像自体は、刑事ドラマ仕立てで、死体の検分に訪れた2人の刑事が赤い橋(若戸大橋)の写真を大量に発見するところから始まる。橋の爆破予告が警察に届き、爆破予告をしたのは、橋の写真を大量に所持していた死体の男なのでは?と後輩刑事が推理をするのだが、先輩刑事は写真に映る赤い服の女に目を止める。刑事は、橋=女に魅了され、橋を見つめながら、「良い女だなぁ」と呟くシーンで映像が音楽とともにフェードアウトしていく。

 赤い服を着た女が若戸大橋の前でカメラを構える男を翻弄する様子は見事で、幻想的な雰囲気で劇中劇の要素も多分にあり、楽しむことができた。胡蝶の夢のような話でもあり、現実なのか夢なのかわからなくなってくるような不思議な雰囲気を纏った映像作品であった。

 ベラミ山荘という場所自体も、外界から隔絶された秘境的ユートピアだったので、そうした環境とも相まって作品の魅力が引き出された良い鑑賞体験ができたと思う。

 ベラミ山荘に行くためなら、また汗だくになっても良いかな、と思える体験であった。

 

貴重な一次資料のオンパレード〜「山口勝弘展 『日記』(1945-1955)に見る」

 神奈川県立近代美術館鎌倉別館にて、「山口勝弘展 『日記』(19451955)に見る」を見た。本展覧会は、1945年から1955年までの間に書かれた18冊の日記を手がかりに、山口の初期作品を展示するものである。山口の日記は「ノスタル爺やの思い出」と書かれた箱に納められており、非常に良い状態で保管されていた。山口は自らの制作目的や作品の構造についても詳細に書き残す人物で、日記にも当時の交友関係や日々の制作の軌跡、訪れた展覧会やコンサートに至るまで、詳細な記述が端正な字で残されている。

 山口はこれまでも美術手帖や音楽芸術、ユリイカなどの雑誌に度々寄稿しており、実験工房きっての筆まめな人物だと思われる。ちなみに、これまで山口が雑誌へ寄稿した文章は『生きている前衛——山口勝弘評論集』(2017)として、井口壽乃編で水声社より出版されている。

 さて、山口が語る自身の制作目的については、評論集の記述と残された作品によってある程度整理することが可能である。しかし、前述の18冊の日記の発見は、山口自身の交友関係や影響を受けた作品について辿ることで、実験工房というグループの成立背景や山口の初期作品における制作理念について改めて実証的に整理することができると思う。

 しかし、本展覧会の構成は、山口の日記を引用し、その記述に関連する作品を提示しつつも、日記からコレクションを読み解くというものでは必ずしもない。山口の初期作品を展示する上での補助線として日記は使われるが、山口の実験工房加入以前と以後を比較し、どのようにその非連続性を捉え直すことができるのか?という問題が展覧会には内在している。注目すべきは、収蔵されている山口の「ヴィトリーヌ」シリーズをはじめ、APNでコラボ制作された写真など、実験工房時代、つまり1951年〜57年頃までの山口の活動がほぼ網羅的に紹介されているという点である。

 さらに、山口や北代の実験工房の加入直前の作品があったのも面白かった。特に北代がシュルレアリスム風の作品を制作していたことは知らなかったので、あそこから露骨にロシア構成主義風の作品を出しはじめたり、カルダーの模倣をやったりするような実践にどうやって変化していったのか非常に気になった。

 また、重要な一次資料として、実験工房が日本におけるメディア・アートの先駆的存在として語られる際に必ずと言っていいほど言及される「オートスライド」作品が3作品見られるという点である。この作品は展覧会が開催されない限りお目にかかれない代物であり、私にとっても貴重な体験となった。これらの「オートスライド」作品は、領域横断的表現をメディア技術の使用によって成し遂げたという点において重要視されており、内容については私の知る限りほとんど言及されてはいない。3作品の中では、「原子力」による破壊を描いた『見知らぬ世界の話』が面白かった。自らの作り出した存在が自らを破壊する存在となるという、ラトゥール的な物神崇拝的なテーマを展開するこの作品は、3作品の中でも一番ストーリー性を感じさせるものであった。「オートスライド」作品は一様に画面が単調で、スライドの移り変わりも一種の断絶を生じさせるレベルの転換があるが、戦後日本美術を記述する上で貴重な資料であることに変わりはない。また、舞台芸術作品の記録写真も展示されており、演者の身体が造形作品と関わる際にどのように変形するのかといった問題についても窺い知ることができるものになっていた。

 本展覧会では、山口や北代の初期作品から実験工房時代の作品への変化についてはある種の断絶を見出すことができると思う。そして、その断絶にはバウハウスやロシア構成主義などの日本における美術受容の問題が絡んでくる。また、舞台芸術作品における造形作品の使用についても記録写真のみからではあるが、その舞台の特異性について十分に認識可能になるはずである。

 皆様もぜひ展覧会に行ってみることをオススメしたい。60年代の比較的大きな作品は出品されていないが、山口の作品における傾向を端的に指し示すことができる展覧会となっていることは評価できるし、貴重な資料にお目にかかれるチャンスである。「ノスタル爺やの思い出」も現代に蘇り、新しい歴史を紡いでいくための一つの礎になるだろう。

追記:作曲家と造形作家のコラボによるグラフィック・スコアもあるので、音楽関係者にも是非。

「展開された場における彫刻」に関してのレジュメ(的メモ)

「展開された場における彫刻」

"Sculpture in the Expanded Field"

原文は1978年に書かれたもの。

 

○本論の目的

1960年代以降の「彫刻」の枠組みを、論理的展開によって捉え直すこと。

※クラウスは、ロバート・モリスを仮想敵としていたのでは?との意見も、議論の中で出現。モリスの論考読まねば。

1.「彫刻」に対する歴史主義的戦略への批判

1段落

メアリー・ミスの《境界線/亭/おとり》(1978)のような「アース・ワーク」作品を例に論を開始。

 

2段落

彫刻というカテゴリーが「ほとんど無限に融通がきくもの」にされない限り、新しく出現した「彫刻」と呼ばれる作品には、従来の「彫刻」カテゴリーを与えることはできない。

 

3段落

彫刻のような用語の拡大解釈と濫用は、前衛美学という名の下に行われているが、新しさを既知のものに還元するという歴史主義的戦略が隠されている。

 

2.「彫刻」カテゴリーの崩壊へ

4段落

1960年代にミニマル彫刻が出現した際、批評は、3段落で述べられていたような歴史主義的戦略によって、ガボやタトリンやリシツキー等の「構成主義の父親たち」[405頁]を召喚した。

構成主義的な諸形態が、普遍的幾何学の不変の論理と一貫性の視覚的証明として意図され」[405頁]たことにミニマリズムが符号するということが、明らかに偶然の一致だということも問題にはならなかった。

→作品内容における固有の差異は問題にならず、「構成主義の父親たち」の歴史的系譜に一元化されてしまう?


5段落 

1960年代が70年代へと延びていくにつれてメディウムが多様化し、「彫刻」という言葉は言い出しにくくなった。

しかし、歴史家/批評家たちは、数千年単位であらゆるもの(ストーンヘンジとかナスカの地上絵とか)を召喚し、作品と歴史との繋がりを証言させることで、「彫刻としてのその地位を嫡出化」[407頁]させることを可能にした。正確には彫刻ではないものを召喚するのは論証が疑わしいものになるので、過去と現在を繋ぐためにプリミティヴィズムに回帰した20世紀初頭の色とりどりの作品(ブランクーシ《無限円柱》)を召喚すれば良い。

 

6段落

「彫刻」が少々〈曖昧なもの〉となり始めカテゴリー自体が崩壊危機に。

3.モニュメントとしての彫刻

7段落

「彫刻の論理は、モニュメントの論理と切り離すことができないものだ」(407頁)

→特定の場所におかれて、その場所の意味や効用について象徴的な語調で語る。

モニュメントは、特定の場所にあって、特殊な意味/出来事を印づけるもの。

彫刻は通例、具象的で垂直的であり、台座は現実と表象的記号との仲介者として構造上重要な役割を果たす。

8段落

「彫刻の論理」は失墜し始める。モニュメント論理の衰退を目撃。

→場所における象徴性や表象性の失権。

記念碑としての彫刻《地獄の門》と《バルザック像》

 

9段落

彫刻はモニュメントの反転した状態へと移行

→「ある種の無場所性、ホームレス性、場所の絶対的喪失」の空間へと入る

つまり、場所(サイト)の喪失と関係しながら作動する、モダニズム期の彫刻的生産へ。

自己言及的な抽象としてのモニュメント、純粋に印づけるものないし基部としてのモニュメントを生み出す。

4.ポストモダニズムの台頭

10段落

モダニズム彫刻の意味と機能は本質的に「場所を欠き」、「自己言及的」。

ブランクーシの作品における基部

→基部は作品のホームレス性を印づけるものと定義される。

 

11段落

60年代初頭に現れる彫刻は、建物の上や前にあって建物ではないもの、あるいは風景のなかにあって風景ではないものであった。

 

12段落

ロバートモリスの問題

○グリーンギャラリーでの展示

→疑似建築的な完全体群で、「部屋の中にあって実際には部屋ではないもの」になっている。

○鏡張りの箱による屋外での展示

→形態が視覚的に芝生や木立と連続しているにもかかわらず、風景の一部ではないという理由で周囲の環境と区別される。

 

13段落

 「彫刻」は非-風景に非-建築を加えたものから帰結するカテゴリーになった。

非-建築かつ非-風景であるという条件を満たす存在を「彫刻」として再定義.。

 

14段落

非-風景は風景という語の別の表し方

非-建築は単純に建築

元の対立関係を鏡像化しつつ同時に開く四元の場に変換される、論理的に展開された場の提示。

 

15段落

風景と建築の二つの項の否定的あるいは中立的な条件においてしか、彫刻的なものを定義するように機能しえなかった。「風景であると同時に建築であるもの」(迷宮や迷路、日本庭園)

 

16段落

展開された場は、彫刻というモダニズムのカテゴリーが宙吊りになっている状態を1組の対立関係を問題化することによって産み出される。

展開された場は他に3つのカテゴリーを召喚する。

1「サイト-構築」[site-construction](「建築」かつ「風景」)

2「公理構造」[axiomatic structure](「建築」かつ「非-建築」)

3「印付けられたサイト」[marked sites](「風景」かつ「非-風景」)

ポストモダニズム

 

4「彫刻」[sculpture](「非-建築」かつ 「非-風景」)

モダニズムカテゴリーとしての「彫刻」

 

17段落

1968年から70年に至るまでの間に「展開された場」について考えることに対する許可(あるいは強制力)に影響を受けた作家達の台頭。ポストモダニズムの出現。

 

18〜20段落

前段のポストモダニズム作家達の実例

○「サイト-構築」[site-construction](「建築」かつ「風景」)

スミッソン《部分的に埋められた薪小屋》

モリス、アーウィン、エイコック、メイスン、ハイザー、ミス、シモンズ、etc…

○「印付けられたサイト」[marked sites](「風景」かつ「非-風景」)

スミッソン《スパイラル・ジェッティ》、ハイザー《ダブル・ネガティヴ》

セラ、モリス、アンドレ、オッペンハイム、ホルト、トラキス、etc…

→「サイトに対する実際の物理的な操作に加え、印づけその他の諸形態をも指し示す。[419頁]

例:スミッソン《ユカタン半島での鏡の転置》

※スミッソンの「ノン・サイト」概念のような、景色から切り取られた断片としてのサイトとも関連してきそう。

○「公理構造」[axiomatic structure](「建築」かつ「非-建築」)

アーウィン、ルウィット、ナウマン、セラ、クリスト、etc..

→建築の現実空間に対するある種の介入がなされる。部分的な再構築や鏡の使用やドローイング...。

ナウマン《ヴィデオ回廊》

可能性としては、建築的経験の開かれと閉ざされという抽象的諸条件をある所与の空間の現実へとマップするというプロセスの探求がある。

 

5.ポストモダニズムにおける個人的実践と媒体の問題

21段落

ポストモダニズムの実践は、個々の芸術家の実践と媒体の問題に関係している。

22段落

ポストモダニズムの実践は、所与の一つの媒体-彫刻によって定義されるのではなく、1組文化的諸項に対する論理的操作との関係において定義される。

→媒体が問題になっているのではない。

 

23段落

ポストモダニズムにおける実践空間の論理は、「素材の知覚を根拠とする所与の媒体の定義をめぐってもはや組織されるものではないことは明らか」である。

ジョエル・シャピロの彫刻の可能性。

 

24 段落

本論考は、歴史主義的批評とは別の、論理的構造という視点から、「形式の歴史」について考えるアプローチをとっている。その前提には、決定的な断絶を受けいれることと、歴史の過程を見つめることの可能性がある。

 

○まとめ(的なもの)

 クラウスの「展開された場」図式は、1960年代以降の彫刻が象徴性や表象性を失い、曖昧なものとなり始めた結果、「素材」の知覚から構成されるものではなくなったという状況を捉えるものである。建築と彫刻、あるいは、風景と彫刻の境界が曖昧になっている作品が多数製作された状況が踏まえられている。例として挙げられているロバート・スミッソンのようなアース・ワークの出現はその代表的なものかもしれない。クラウスによると彫刻が〈彫刻である〉ための条件とは、「素材」によって作られることではなく、「建築ではない」ものであり、かつ「風景ではない」ものとして定義される。「非-建築」、「非-風景」という否定語を擁立し、対立項として「建築」、「風景」を召喚する。新しく出現した曖昧な彫刻は、四つの項のいずれかの対立項として捉えることができる。

 重要なのは、彫刻を「素材」によって区分してしまうと、そこに当て嵌まらない動向が現れた時に、彫刻なのか否かという判断が不能になってしまうということだろう。それが、曖昧な彫刻を制作している作家達の制作目的にたどり着くことを妨げていた。彫刻を「非〜」かつ「非〜」と定義し、論理的に想定できる四つの対立項を生じさせることで、今までの枠組みでは捉えきれなかった動向を理解することができるようになった。

 

 参考文献 ロザリンド・E・クラウス(2021)「展開された場における彫刻」『アヴァンギャルドのオリジナリティ ―― モダニズムの神話』(谷川渥・小西信之訳)月曜社

人間関係について

 〜人間関係を気にしなくていいなら、この世の悩みの9割は解決するはずだ〜

 

 人というものは恐ろしい。数多ひしめく、もののけの類よりも恐ろしい。人生は人との関わりの連続であり、人付き合いは避けることはできないし、人と関わり合うことはめちゃくちゃ楽しいけれど、同時に、とても恐ろしい。

 人は無邪気に純粋な感性のうちに人を傷つけるし、人間関係のうちに序列を作ろうとする。それは、コイツなら舐めても構わないとかコイツには逆らわないでおこうといった、個人の判定基準によるヒエラルキーである。それは往々にして社会やコミュニティでの地位や自分との関連度、将来性などから算出されるのだが、これが本当に厄介である。それなりの立ち振る舞いをしておかないと舐められたり精神的に追い詰められて殺されたりする。

 僕は中高時代は人間関係で衝突したので、よくわかる。自分の意思を表明し続け、上手いこと責任を回避するような立ち振る舞いをしないとターゲットにされて潰される。社会人は「立場」というものがあるし、昨今はハラスメントなど風当たりが強いので少し収まっている感があるのだが、泣き寝入りを決め込むか、ひっそりと死んでいく人も数多くいるだろう。僕は、そういう人々のことをよく考える。声を上げたくても上げられない人々のことを。でも、死ぬくらいなら声をあげてほしい。少なくとも友人には相談してほしい。僕も親や友人に何かあれば相談しているけれど、自分の受けた痛みを言語化することは、痛みや憎しみから距離を取る際に必要なことだと思っている。

 普段の会話の中でも人から傷つくことを投げつけられることはあるし、その人との関係性が浅からぬものだったりすると、喪失感がすごい。もちろん親友であれば自分の気持ちをありのままに伝えるが、そうできる人間は限られている。

 僕は色々気にしなくてもいいことを考えすぎてしまう性格だけれども、自分がおかしいと思ったことや傷ついたことは覚えておくことにしている。昔受けた傷も忘れることはない。

 もちろん僕も様々な人を、知らず知らずのうちに傷つけてしまっているだろう。もし僕の発言や行動で傷ついてしまっている人がいるなら、僕の気付いてないところで傷ついている人がいるなら謝罪したい。

 人の痛みに無頓着な人間にはなりたくない。しかし、歩み寄りも大事だと思う。世の中が被害者大国になって、各々の被害を声高に主張し始めるのもそれはそれで加害性を持つ。被害者は往々にして、自らの加害性に対して無頓着だ。だからこそ、一旦自分の行動も振り返ってみる必要があると思う。そして、他者の言動や行動に関しての自分の許せる範囲について、よくよく吟味する必要がある。

 僕は人はどこまででも残酷になれることを知っている。自らの立場が脅かされそうになると、すぐに攻撃を始める人々がいることも知っている。色んなニュースを見たり知人の話を聞く度に、人は信じられないし、形式的な会話だけを行なって距離を置いて暮らそうと何度でも思う。

 無神経な人は多い。友人たちにも実は多い。身勝手な言動や行動には腹が立って仕方ない時もある。でも自分の行動を振り返って相手の行動を許すことも多い。また、そうした人々も僕に優しくしてくれたり(理由はどうあれ)、会話を楽しんでくれたりする。その優しさに触れたとき、今を生きていてよかったなと思うのだ。

 人のことを無条件に信用できないことも多いし、ちょっとでも無理だと思ったら距離を離してしまうことも多い僕だけれど、人々の優しさに触れることで、人間関係を続けられている。

 社会において怒りの表明は損だと思う。でも怒りの感情は損得ではない切実な感情だ。あまりにも怒りが誰かに対して持続するようなら、それは表明しなければならない。ただ、出す場所を失敗すると、物笑いの種になるだけなので、出す場所だけは間違えないようにする必要がある。怒らないで済むならその方が良い。

 大変なこともあるけれど、おかげさま精神を持って生きていきたい。