伊澤の牧場〜アンチフォーム交友録〜

行き場のない言葉達を放牧しています。勝手に書く。

「Neuron 」Aaron Lam Kwok-yam とArt Center Ongoingでのほろ酔いだべり

吉祥寺のArt Center Ongoingにて「Neuron」という展示を見た。発光するオブジェと室内を循環するウィスキーによってインスタレーションとして面白い空間になっていたが、おそらく、この場所でしか実現し得なかったものだろう。

オンゴーイングの外観は、およそギャラリー然としないものであり、一見すると吉祥寺によくある小洒落たカフェの一つのようにも見える。しかし、その実は、世界中から若手のアーティストを招聘し、実験的な作品を作り続けるアーティスト達を支援する日本のアート界で最もアツいオルタナティブスペースだ。

オーナーの小川さんとは、僕が武蔵美在学時に知り合った。小川さんは芸文で非常勤講師として講義を一つ持っていて、僕らは芸術祭の持つ暴力性について話した。僕のような生意気な学生の意見も真摯に聞いてくれていて、とても嬉しかったのを覚えている。親が長野県出身で共通項があったことにも親近感を持った。小川さんが芸文に持ってきたバイトで、僕はオンゴーイング周辺の人々と関わることになった。

一回、小川さんがディレクターを勤める、TERATOTERAアートフェスティバルという三鷹の街中で行われるアートイベントで、アーティストグループ「ハンバーグ隊」の店番をやったことがある。最近オペラシティで個展をやっていた泉太郎さんも参加している団体で、マジおもろいので機会があったら見てみて欲しい。僕はひたすらハンバーグをチンしてハンドアウトにハンバーグを挟み、鑑賞者にお渡ししていた。このバイトは、僕が作品について少々喋りすぎてしまったことを除けば、わりとうまくいったと思う。なんかそんな記憶がある。

あと、橋下聡さんの展示でもパフォーマンスを行う人の1人として参加したり、トークイベで質問したり、なんか色々やっていた。

うらあやかさんも来場者のほくろを星座として繋ぎ、それに名前を与えるというパフォーマンスをしており、とても良かった。芸術でこんなにも街の人々が盛り上がれて、都市と芸術が共存できるのだということを初めて知った。

オンゴーイングでのアーロンの作品は、日常と地続きで、日々新陳代謝を繰り返す、我々の身体と空間を密接に結びつけようとしたインスタレーションだと理解した。ここでの展示は、いつも日常空間と地続きだ。それでいて作品としての力を失うことはない。

アーロンの作品に使用されたオブジェも、美術館内であればチープに見えたかもしれない。ぢかし、オンゴーイングでは柱や梁を使用した空間配置の妙もあり、作品として完成度が高く見えた。ニューロン神経細胞を酒を循環させることと重ね合わせていたのは面白かった。光や酒に単純に反応する我々の身体もまた、展示会場の中で見られる客体としてコンセプトの中に組み込まれているのだなあと感じた。

展覧会を見たあとに小川さんとインターンの松岡さんとビールを飲みながら話した。オンゴーイングも16年目。そんじょそこらのコマーシャルギャラリーとは違い、実験的かつ前衛的な若手作家達に発表の場を与えてきた。

資本主義に中指を立て続けるロックさは、僕の好むところである。

あと4年は続けたい、と小川さんは言っていた。自分も、1つのことを20年続けたいなあと思いつつほろ酔いで帰路に着いた。

稀代のSF作家の物語理論、あるいは闘病記〜『伊藤計劃記録 I』

伊藤計劃記録 I』を読んだ。読んだ理由は、僕が彼の『虐殺器官』という小説を読み(もはや日本において語り継がれる伝説的なSF小説だが)、どうやったらこんな物語を書けるのか不思議に思ったからだ。彼が文章を書く時、物語を描いていく時に、その源流に流れているものはなんなのか知りたかった。

寿命が潰えていく中で、自分の朽ちていく身体をSF的に解釈し、次々と連想ゲームのように打ち出される文章は作家のドライブ感に満ち溢れていて、とても心地良い。

一人称がほとんどの場合「ぼく」なのも意外だったが、「僕」よりもナルシスティックな面が薄まっている感じがするし、柔らかい感じでドライブできるのが良い。僕も何かの文章で使うことにしようと思う。

僕はブログでの発言と恋人との会話では「僕」を用いることが比較的多かったように思うが、親しい友人同士の会話ではほとんどの場合「俺」を用いる。もちろんフォーマルな場所では「私」になる。

人称は文章を書く時に(特に小説を書く時に)重要な技術ではあるが、伊藤計劃の軽妙洒脱なブログでの振る舞いは、実作をする人の参考にもなるのではないかと感じられた。ってか、こんなにユーモア溢れる人だとは知らなかった。

この記録集は8割がメタルギアソリッドの話か、SF映画の話か、闘病記か、あるいはそれらが渾然一体となったものなのだが、映画の知識が半端ねえ。考察も深いし、これ読んでるだけでSF最高って叫び出したくなるくらい凄いんだ。僕には全く知り得なかった映画のレビューの書き連ねが文学になっている。レビュー文学ですこれは。ジブリ映画についてのレビューもあった。『もののけ姫』に関してのレビューを読んだが、「ある種の逡巡と傲慢さが同居した結果落とし所が全く不明なまま物語が暴走する、『手に汗握る絶望』が全編を覆っている」 と評したのは、言い得て妙だと思った。

ブログは、自分の死後も読み継がれる。SNSの発言だってそうだ。言葉が一人歩きして、多くの人間に突き刺さる。突き刺さって抜けないまま、皮膚の中に埋没し、血管をすり抜けていく。簡単に心臓に言葉が突き刺さる世の中で、傷つかないために沈黙するのはうんざりだ。

伊藤計劃のブログは、読む快楽に満ち溢れている。それは、小説で作り込まれた精緻な設定に基づく世界とは別種のものだ。

記録集を買わなくても、ウェブ上に残ったブログに触れることはできる。別に彼の小説を読んだことがなくても、映画かメタルギアソリッドが好きなら十分に楽しめるだろう。興味ある人はぜひ。

https://projectitoh.hatenadiary.org/

何度目かの帰省くらい大目に見てよ

 昨日茨城の実家に帰ってきた。採用試験のためだ。フィールド調査が必要になるなと思い、少し街歩きをする。今の仕事は意外に歩くことが多い。院生の頃より歩く距離は増えたかもしれない。

 何度目かの帰省になる。僕が下関に赴任して一年が経とうとしている。

 仕事でもプライベートでも何度か「事件」は起きたが、どれもそんなに酷い傷は残してはいない。その時負った傷は既に瘡蓋になり、乾き始めているところだ。もうすぐ取れるだろう。

 湯島の建築資料館に行ってから千代田線に乗り、北千住で降りて藝大の修論発表を聴いた後、葛飾区に移動して柴又の街を歩いた。建築資料館では、原広司のドローイングが思いの外カラフルで、伸びやかな線が走っていたのが印象的だった。

 修論審査会で茨城の芸術祭について扱っていた。芸術祭研究はインタビュー命なので、なかなか時間を捻出するのが難しいだろうな、と思う。論文を読んでみたかったので、後で連絡をとることにする。作曲やサウンドアートをやってる人もおり、色々と楽しみながら見て回れた。

 柴又では参道をたくさん歩いてみたが、明日の試験に備えて良い調査ができたかなあと思う。最近、本は読むようになったけど思考力が落ちてる気がするので、もっと文章を書くようにしたい。ブログを再開し出したのも、文章の練習と思考の整理のためである。

 帰り際に金町の「ときわ食堂」で天丼を食べてビールを飲んだ。一緒に食べた人と美味しいねって笑いあって、思わず余韻を噛み締めてしまうくらい美味しかった。人が笑っているのを見るのは好きだ。たまに、人の感情とか考えていることがわからなくなって不安になってしまう時がある。そういう時、僕が確かめても、ちゃんと笑ってくれる人は素敵だ。

 僕は食べることが好きだし、人を笑顔にさせるのって食べ物の持つ大いなる力の一つだと思う。

 父が駅まで迎えにきてくれていて、ドラマを見ながら帰った。明日の準備をして早めに寝ようと思う。

 

疲れと帰省

今日は色々とめまぐるしく動いた。

加害者と被害者はどこから区分けされるのか。色々とグラデーションがあるのではないかと考えたりした。

福岡から帰省したが、博多は人が多い。福岡市美の森山安英の作品を僕はいつになったら見られるのだろうか。

普通の日記

 Twitterでスペースをやったら、友人知人が来てくれて楽しく話をすることができた。故郷から遠く離れて、知り合いほとんどいない地にいると、寂しくなる。

 余計なことを考えることも増えた。今のところ、他人と会話することが、自分を生かす手立てだと考えている。でも、同時に何か物足りなさを感じている。

何だ?

 僕は何らかの、目に見える形での実績を出すまではここにいるだろう。いや、いたいと思う。でなければ、なぜわざわざここにきたのかわからない。ここでなければならない理由はあるようでない。一応、内定は出ているけれど、帰投は今じゃない。まだ、覚えることだってたくさんある。

 やりきれない気持ちは毎日抱えている。職場環境に全く不満はない。不満はないが満たされていない気がする。

満たされるってなんだろうか?

 僕は過去と未来を繋ぐミュージアムという装置が好きだし、日常の重力から逃避できる場所だと思う。できれば、非日常が日常になるまでそこで暮らしたいと思う。展示室に足を踏み入れる瞬間が好きだ。作品と向き合い、観察し、少しその中に潜ってみる。息継ぎする間もなく行われる作品との対話が心地よい。

 しかし、現代美術や演劇を見る機会が少ないのはやっぱり堪える。最近は、自分は首都圏に暮らすのが性に合っていることを認めざるを得ない。

 空調の音だけが微かに聴こえる静かな部屋で考えたことは、結局ロクに結論が出ないまま堂々巡りを呼び起こす。明日も少しだけ浮上しよう。これからのためにも。

下関・北九州滞在期①「ベラミ山荘の怪」

 下関で仕事をはじめてから長らくブログをサボってしまっていた。元来の不出不精ならぬ筆不精が祟ったからであり、言葉の放牧を怠っていたこと、ご容赦願いたい。これからは少しずつ更新していきたい所存だ。

 何せ、見たものと書いたものの数が偏りがちになるのは、文章書きとして大変良くないことであろうと思うし、自分も修論やエッセイを書いていた時よりも腕が鈍った感じがしているので、書きつつ読み返しつつ考えていけたらと思っている。

 さて、本題に入ろう。北九州市若松区には、若戸大橋と呼ばれる真っ赤な橋がある。この橋、北九州の戸畑区若松区を繋ぐ交通の要所として機能しているのだが、どうやら重要文化財に指定されているようで、若戸大橋を宣伝する幟がある場所も多かった。

 若松区高塔山には「ベラミ山荘」と呼ばれる山荘があり、そこには「ベラミ山荘 若戸大橋祭り」なる展覧会が行われていた。

 汗だくになりながら山荘周辺にたどり着いたは良いものの、ほとんど山登りの様相を呈してきていた。いやはや、こんなところに人が住む場所があるのかと半信半疑になりかけていた矢先、涼しげな音楽が木陰の隙間から聞こえてくる。音につられて細い小径を歩いていくと、丁寧に刈り込まれた芝生が広がる中庭に人が点々と散らばって椅子に腰掛け、音楽に耳を傾けているのが見えた。

 ライブを行っていた末森樹(Gt.)さん×山福朱実(Vo.)さんのデュオによる軽快なスペイン音楽は、風に乗って草木を揺らしながら僕の耳に届いた。

 木陰で涼みながら音の流れに耳を澄ませる度、少し重力から解放されたような気がした。山荘は普段はシェアハウスとして使われているようだが、今回は展覧会ということで部屋ごとに会場構成がなされていた。

 作品数がそこそこあったので、今回は気になった作品をひとつだけ上げたいと思う。

 僕が関心を惹かれたのは、ほしそらフィルム 映像作品『赤い橋と赤い女』という作品だ。この作品は良い意味で素人っぽさがあり、それがまた良い味を出している。

 映像自体は、刑事ドラマ仕立てで、死体の検分に訪れた2人の刑事が赤い橋(若戸大橋)の写真を大量に発見するところから始まる。橋の爆破予告が警察に届き、爆破予告をしたのは、橋の写真を大量に所持していた死体の男なのでは?と後輩刑事が推理をするのだが、先輩刑事は写真に映る赤い服の女に目を止める。刑事は、橋=女に魅了され、橋を見つめながら、「良い女だなぁ」と呟くシーンで映像が音楽とともにフェードアウトしていく。

 赤い服を着た女が若戸大橋の前でカメラを構える男を翻弄する様子は見事で、幻想的な雰囲気で劇中劇の要素も多分にあり、楽しむことができた。胡蝶の夢のような話でもあり、現実なのか夢なのかわからなくなってくるような不思議な雰囲気を纏った映像作品であった。

 ベラミ山荘という場所自体も、外界から隔絶された秘境的ユートピアだったので、そうした環境とも相まって作品の魅力が引き出された良い鑑賞体験ができたと思う。

 ベラミ山荘に行くためなら、また汗だくになっても良いかな、と思える体験であった。

 

貴重な一次資料のオンパレード〜「山口勝弘展 『日記』(1945-1955)に見る」

 神奈川県立近代美術館鎌倉別館にて、「山口勝弘展 『日記』(19451955)に見る」を見た。本展覧会は、1945年から1955年までの間に書かれた18冊の日記を手がかりに、山口の初期作品を展示するものである。山口の日記は「ノスタル爺やの思い出」と書かれた箱に納められており、非常に良い状態で保管されていた。山口は自らの制作目的や作品の構造についても詳細に書き残す人物で、日記にも当時の交友関係や日々の制作の軌跡、訪れた展覧会やコンサートに至るまで、詳細な記述が端正な字で残されている。

 山口はこれまでも美術手帖や音楽芸術、ユリイカなどの雑誌に度々寄稿しており、実験工房きっての筆まめな人物だと思われる。ちなみに、これまで山口が雑誌へ寄稿した文章は『生きている前衛——山口勝弘評論集』(2017)として、井口壽乃編で水声社より出版されている。

 さて、山口が語る自身の制作目的については、評論集の記述と残された作品によってある程度整理することが可能である。しかし、前述の18冊の日記の発見は、山口自身の交友関係や影響を受けた作品について辿ることで、実験工房というグループの成立背景や山口の初期作品における制作理念について改めて実証的に整理することができると思う。

 しかし、本展覧会の構成は、山口の日記を引用し、その記述に関連する作品を提示しつつも、日記からコレクションを読み解くというものでは必ずしもない。山口の初期作品を展示する上での補助線として日記は使われるが、山口の実験工房加入以前と以後を比較し、どのようにその非連続性を捉え直すことができるのか?という問題が展覧会には内在している。注目すべきは、収蔵されている山口の「ヴィトリーヌ」シリーズをはじめ、APNでコラボ制作された写真など、実験工房時代、つまり1951年〜57年頃までの山口の活動がほぼ網羅的に紹介されているという点である。

 さらに、山口や北代の実験工房の加入直前の作品があったのも面白かった。特に北代がシュルレアリスム風の作品を制作していたことは知らなかったので、あそこから露骨にロシア構成主義風の作品を出しはじめたり、カルダーの模倣をやったりするような実践にどうやって変化していったのか非常に気になった。

 また、重要な一次資料として、実験工房が日本におけるメディア・アートの先駆的存在として語られる際に必ずと言っていいほど言及される「オートスライド」作品が3作品見られるという点である。この作品は展覧会が開催されない限りお目にかかれない代物であり、私にとっても貴重な体験となった。これらの「オートスライド」作品は、領域横断的表現をメディア技術の使用によって成し遂げたという点において重要視されており、内容については私の知る限りほとんど言及されてはいない。3作品の中では、「原子力」による破壊を描いた『見知らぬ世界の話』が面白かった。自らの作り出した存在が自らを破壊する存在となるという、ラトゥール的な物神崇拝的なテーマを展開するこの作品は、3作品の中でも一番ストーリー性を感じさせるものであった。「オートスライド」作品は一様に画面が単調で、スライドの移り変わりも一種の断絶を生じさせるレベルの転換があるが、戦後日本美術を記述する上で貴重な資料であることに変わりはない。また、舞台芸術作品の記録写真も展示されており、演者の身体が造形作品と関わる際にどのように変形するのかといった問題についても窺い知ることができるものになっていた。

 本展覧会では、山口や北代の初期作品から実験工房時代の作品への変化についてはある種の断絶を見出すことができると思う。そして、その断絶にはバウハウスやロシア構成主義などの日本における美術受容の問題が絡んでくる。また、舞台芸術作品における造形作品の使用についても記録写真のみからではあるが、その舞台の特異性について十分に認識可能になるはずである。

 皆様もぜひ展覧会に行ってみることをオススメしたい。60年代の比較的大きな作品は出品されていないが、山口の作品における傾向を端的に指し示すことができる展覧会となっていることは評価できるし、貴重な資料にお目にかかれるチャンスである。「ノスタル爺やの思い出」も現代に蘇り、新しい歴史を紡いでいくための一つの礎になるだろう。

追記:作曲家と造形作家のコラボによるグラフィック・スコアもあるので、音楽関係者にも是非。